Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─
第13話 聴いていたい声
美咲が井庭にもらった楽譜は、歌だけを見れば簡単だっただろう。しかし伴奏は歌とは別物で、特に最後に追加された楽譜は美咲の記憶通りの音符が並んでいた。
メロディ自体は軽やかで秋らしく、三分もないけれど。
利き手ではない左手は十六分音符の連続で、動きも大きいのですぐに外してしまう。右手はさほど難しくはないけれど、左に気を取られているとうっかり間違える。
自分が歌っていたときの楽譜も出してきて、メモしていた強弱を確かめる。ピアニストの演奏を思い出して、滑らかに弾こうとする──そして、間違えてしまう。
「まだ練習始めたとこやろ? 弾けてるほうやと思うで」
土曜日の午後、朋之が個人的に利用しているスタジオがあるというので一緒に行くことになった。彼は歌の練習のほかに、趣味でギターを弾いているらしい。
「いつからやってんの? 高校入ってから?」
「そうやな……友達に誘われて」
持ってきたギターは一旦置いておいて、朋之は歌の練習を始めた。話す声が少し低くなっていたけれど、出せる高さはそれほど変わっていないらしい。彼が歌うのを聞きながら、美咲は脳内でピアノを弾いてみる。
「……どうかした?」
「え? あ──ううん。よし、私も練習……」
彼の歌に聴き惚れていた、なんて言えるはずがない。
美咲は姿勢を正してから練習を再開し、しばらくすると朋之が歌うのをやめた。同じところを繰り返している美咲の隣に立ち、楽譜の一点を指差した。
「ここ、おかしくない? 〝向こうから~こっちから~〟の次、〝あーあーああー〟のとこ」
右手と左手を合わせて八音続けるのは、成功すると流れるように聞こえるけれど。失敗するとブツブツ切れて聞こえるし、左右の音の強さも変わってしまう。同じようなメロディが続いているから、違う音で覚えてしまうと修正が大変だ。
美咲は指摘されたところを繰り返し、スムーズに弾けるようになってから楽譜を最初に戻した。鍵盤に指を乗せ、一呼吸置いてから一通り弾いてみた。まだまだ完璧とは言えないけれど、それでも一応、止めてしまうことなく最後まで弾いた。
「やっぱ凄いよなぁ、紀伊さん」
朋之が気配を消して後ろに立っていた。
「そうかなぁ……」
「そやで。中学のときだって、楽譜もらって一週間くらいで弾けてたから、練習困らんかったし」
そう言われると、そうだった気がする。何かの都合で隣のクラスと合同で女子だけ音楽の授業をしたときも、隣のクラスの生徒に『伴奏代わってほしい』と言われたことがある。
「明日は練習どうする? 行く? ちなみに俺は行けへんけど」
「明日は私も用事あるから……もうちょっと仕上げてから行くわ」
「了解。井庭先生に言っとくわ。俺ちょっと遊ぶから、適当にしといて」
朋之がギターを弾き始めたので、美咲はピアノを音を小さくして練習した。
それから数週間後の日曜日の午後。
敬老の日のコンサートの前日、休憩のあとで美咲の出番があるというので練習に顔を出した。あれから美咲は伴奏の練習を続け、都合が合えば朋之とスタジオを借りて、なんとか楽譜を見なくても弾けるようになった。美咲が知っていた曲はもちろん、他のやつもだ。
「へぇ、二人で練習してたん? どう? 山口君、小山さんは」
「もう完璧です。目瞑っててもいけそう」
「それは無理、さすがに……こんなにピアノと向き合ったの久々やから手が痛い……」
練習が始まる前にそんな話をしていると、ドアノブが回る音がした。メンバーが来たのだろう、と軽く思っていると、足音は近づいてきた。
「こんにちは、井庭先生。ああ、山口君も──、あら久しぶり」
入ってきたのは、篠山だった。
井庭と朋之は普通に挨拶を返していたけれど、美咲は声が出ずに固まってしまった。篠山は特に何も言わず、そのまま井庭と何か話していた。
「篠山先生──お久しぶりです……。あの……」
美咲が話しかけると、篠山は振り返った。井庭は話を中断して朋之を連れて離れていった。
「あの、……すみませんでした。勝手なことばっかりして……」
美咲は頭を下げたまま動けなかった。篠山の表情は見えないし、何も話さないので感情がわからない。怒られるのを覚悟して、じっと耐えていた。
「頭あげなさい。みんな見てるから」
顔を上げるとやはり、篠山は怖い顔をしていた。
「あなたとは──美咲ちゃんとは、長い付き合いやからね。嫌な思いしたくないし、私がいつまでも引きずるの嫌いって知ってるでしょう。十年以上前やし、あの時のことは忘れます」
「すみません……」
「そのかわり、今後一切、うちの合唱団には入らないでください。それから、井庭先生に迷惑かけんように。それが条件です。──練習に来ないし連絡もつかなくなるし、心配したんよ。まぁ、元気そうで何より……」
篠山は笑顔になり、握手を求められたので美咲は応じた。
フェードアウトしてからのことを篠山が聞いてきたので、大学を卒業して就職し、数年前に結婚して今は地元を離れて専業主婦だと伝えた。
「山口君とは、同窓会で会ったの?」
「はい。佐藤さんって覚えてますか? 佐藤華子……」
「えー……はいはい、あの元気な子?」
「ハナちゃんが、旦那の母方の親戚やったんです。それで、同窓会しよう、ってなって」
華子の手伝いを兼ねて参加した同窓会で再会し、裕人の美容室にも通いだしたと話した。そういえば最近は忙しくなって行けてないな、と思い出し、近いうちに予約しようと考えながらも、頭の中にあるのはこのあとに待つ伴奏だ。
練習開始時刻になり、朋之が全員を注目させて連絡事項を伝える。裕人の成長に驚いたけれど、朋之も同じように立派な大人になった。子供のときの自分の目に間違いはなかったな、と思わず笑ってしまう。
「それから今日はえいこんの篠山先生が来られてるのと、あと──小山さんもいるので後でピアノに合わせます。まずは明日の曲を──」
そしてメンバーが練習を始めてから、美咲は井庭と翌日の打ち合わせをした。篠山は練習を聞いたり井庭と話したりしながら、えいこんの近況を美咲にも教えてくれた。美咲が伴奏するのを聴いて、うちに欲しいな……、と笑っていた。
メロディ自体は軽やかで秋らしく、三分もないけれど。
利き手ではない左手は十六分音符の連続で、動きも大きいのですぐに外してしまう。右手はさほど難しくはないけれど、左に気を取られているとうっかり間違える。
自分が歌っていたときの楽譜も出してきて、メモしていた強弱を確かめる。ピアニストの演奏を思い出して、滑らかに弾こうとする──そして、間違えてしまう。
「まだ練習始めたとこやろ? 弾けてるほうやと思うで」
土曜日の午後、朋之が個人的に利用しているスタジオがあるというので一緒に行くことになった。彼は歌の練習のほかに、趣味でギターを弾いているらしい。
「いつからやってんの? 高校入ってから?」
「そうやな……友達に誘われて」
持ってきたギターは一旦置いておいて、朋之は歌の練習を始めた。話す声が少し低くなっていたけれど、出せる高さはそれほど変わっていないらしい。彼が歌うのを聞きながら、美咲は脳内でピアノを弾いてみる。
「……どうかした?」
「え? あ──ううん。よし、私も練習……」
彼の歌に聴き惚れていた、なんて言えるはずがない。
美咲は姿勢を正してから練習を再開し、しばらくすると朋之が歌うのをやめた。同じところを繰り返している美咲の隣に立ち、楽譜の一点を指差した。
「ここ、おかしくない? 〝向こうから~こっちから~〟の次、〝あーあーああー〟のとこ」
右手と左手を合わせて八音続けるのは、成功すると流れるように聞こえるけれど。失敗するとブツブツ切れて聞こえるし、左右の音の強さも変わってしまう。同じようなメロディが続いているから、違う音で覚えてしまうと修正が大変だ。
美咲は指摘されたところを繰り返し、スムーズに弾けるようになってから楽譜を最初に戻した。鍵盤に指を乗せ、一呼吸置いてから一通り弾いてみた。まだまだ完璧とは言えないけれど、それでも一応、止めてしまうことなく最後まで弾いた。
「やっぱ凄いよなぁ、紀伊さん」
朋之が気配を消して後ろに立っていた。
「そうかなぁ……」
「そやで。中学のときだって、楽譜もらって一週間くらいで弾けてたから、練習困らんかったし」
そう言われると、そうだった気がする。何かの都合で隣のクラスと合同で女子だけ音楽の授業をしたときも、隣のクラスの生徒に『伴奏代わってほしい』と言われたことがある。
「明日は練習どうする? 行く? ちなみに俺は行けへんけど」
「明日は私も用事あるから……もうちょっと仕上げてから行くわ」
「了解。井庭先生に言っとくわ。俺ちょっと遊ぶから、適当にしといて」
朋之がギターを弾き始めたので、美咲はピアノを音を小さくして練習した。
それから数週間後の日曜日の午後。
敬老の日のコンサートの前日、休憩のあとで美咲の出番があるというので練習に顔を出した。あれから美咲は伴奏の練習を続け、都合が合えば朋之とスタジオを借りて、なんとか楽譜を見なくても弾けるようになった。美咲が知っていた曲はもちろん、他のやつもだ。
「へぇ、二人で練習してたん? どう? 山口君、小山さんは」
「もう完璧です。目瞑っててもいけそう」
「それは無理、さすがに……こんなにピアノと向き合ったの久々やから手が痛い……」
練習が始まる前にそんな話をしていると、ドアノブが回る音がした。メンバーが来たのだろう、と軽く思っていると、足音は近づいてきた。
「こんにちは、井庭先生。ああ、山口君も──、あら久しぶり」
入ってきたのは、篠山だった。
井庭と朋之は普通に挨拶を返していたけれど、美咲は声が出ずに固まってしまった。篠山は特に何も言わず、そのまま井庭と何か話していた。
「篠山先生──お久しぶりです……。あの……」
美咲が話しかけると、篠山は振り返った。井庭は話を中断して朋之を連れて離れていった。
「あの、……すみませんでした。勝手なことばっかりして……」
美咲は頭を下げたまま動けなかった。篠山の表情は見えないし、何も話さないので感情がわからない。怒られるのを覚悟して、じっと耐えていた。
「頭あげなさい。みんな見てるから」
顔を上げるとやはり、篠山は怖い顔をしていた。
「あなたとは──美咲ちゃんとは、長い付き合いやからね。嫌な思いしたくないし、私がいつまでも引きずるの嫌いって知ってるでしょう。十年以上前やし、あの時のことは忘れます」
「すみません……」
「そのかわり、今後一切、うちの合唱団には入らないでください。それから、井庭先生に迷惑かけんように。それが条件です。──練習に来ないし連絡もつかなくなるし、心配したんよ。まぁ、元気そうで何より……」
篠山は笑顔になり、握手を求められたので美咲は応じた。
フェードアウトしてからのことを篠山が聞いてきたので、大学を卒業して就職し、数年前に結婚して今は地元を離れて専業主婦だと伝えた。
「山口君とは、同窓会で会ったの?」
「はい。佐藤さんって覚えてますか? 佐藤華子……」
「えー……はいはい、あの元気な子?」
「ハナちゃんが、旦那の母方の親戚やったんです。それで、同窓会しよう、ってなって」
華子の手伝いを兼ねて参加した同窓会で再会し、裕人の美容室にも通いだしたと話した。そういえば最近は忙しくなって行けてないな、と思い出し、近いうちに予約しようと考えながらも、頭の中にあるのはこのあとに待つ伴奏だ。
練習開始時刻になり、朋之が全員を注目させて連絡事項を伝える。裕人の成長に驚いたけれど、朋之も同じように立派な大人になった。子供のときの自分の目に間違いはなかったな、と思わず笑ってしまう。
「それから今日はえいこんの篠山先生が来られてるのと、あと──小山さんもいるので後でピアノに合わせます。まずは明日の曲を──」
そしてメンバーが練習を始めてから、美咲は井庭と翌日の打ち合わせをした。篠山は練習を聞いたり井庭と話したりしながら、えいこんの近況を美咲にも教えてくれた。美咲が伴奏するのを聴いて、うちに欲しいな……、と笑っていた。