Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─
第2話 少し前の話
美咲が結婚したのは、三十歳になった頃だった。
二十代後半で付き合っていた恋人とは三十路目前で破局し、焦りを感じていたときに知り合いから小山航を紹介された。初対面が結婚前提だった上に性格も違ったので戸惑ったけれど、長く一緒にいて疲れるかと聞かれると『いいえ』という感想だった。
これまでに付き合っていた人たちとの違いはおそらく、育った環境にあった。美咲はずっと普通の核家族の、できれば長男ではない人を選んできた。義両親といきなり同居するのは嫌だったし、大きい家の後取りというのも、面倒くさいことになりそうな気がして、何も気にしなくて良さそうな平凡な人、かつ家を出て都会で一人暮らしをしている人を選びがちだった。
けれど紹介された航は、両親と祖父母の三世代で暮らしていたらしい。住んでいるのも都会ではなく、昔からある少し田舎の町。彼の育った環境を聞くたびに、将来のことが心配になった──けれど。
似たような環境で育った美咲は航に親近感を覚えたし、彼も彼の両親も、『同じ三世代で暮らしてきてるから合うと思う』と言っていた。航を断ってすぐに他の人と出会える保証もなかったので、美咲は覚悟を決めて彼を選んだ。
普段生活しているマンションの近くに義実家があって、週末はよく航と二人で顔を出していた。
「あのな、私の兄のお嫁さん、江井市から来てるねん」
そんな話を始めたのは義母だった。江井市は美咲が生まれ育ったところだ。
「佐藤商店って知ってる? あそこの人でな。確か美咲ちゃんくらいの女の子おったって聞いた気するけど」
佐藤商店は駅前にある小さな売店だった。店が開いていたとき美咲はまだ小さかったので、店内のことは覚えていないけれど。
「あ──いました。お店のことも言ってました」
同じクラスになったことも、深い話をしたこともなかったけれど。
駅前の目立つところにお店があったので、華子が店と関係している、と知ってから駅に行く度に思い出していた。売り上げの関係か人手不足だったのか、いつしか店はシャッターを閉めたままになった。
用事ができて美咲が航と義母の実家に行ったとき、江井市の話になった。義母の兄も仕事で江井市に行ったことがあるようで、江井市についていちばん知識が少ない航は少し放置されていた。
「聞いた? 私の実家のほうに美咲ちゃんと同級生の子いてるって」
「はい。聞きました」
「ハナちゃんていう、花じゃなくて」
「華やかの華ですよね」
「そうそう」
「でもハナちゃんに美咲ちゃんのこと聞いたら、覚えてない、って……」
中学を卒業してずいぶん経っているので、忘れられていても仕方がない。もしかすると、特に思い出がないから面倒で知らないふりをしたのかもしれない。
(それはそれで嫌やけどなぁ)
華子はいま地元から遠いところで一人暮らしをしていて、会社でもわりと人気者らしい。
「江井市に佐藤さんっておったって言うてたやろ? あの子が美咲ちゃんに会いたいんやって」
いつものように義実家に行った週末、義母が美咲に言った。
「詳しいことは知らんけど、いろいろ思い出したから話したいって」
美咲は特に話したいことはなかったけれど。
結婚して専業主婦になり時間に余裕があったので、華子と会うことになった。久しぶりすぎて会ってもわからない可能性があったので、時間と場所は美咲が指定した。江井市の駅前の、佐藤商店の前だ。
華子と会う前に、美咲は実家に寄った。
「えーっと、アルバムは……あった」
中学の卒業アルバムのページをめくり、華子を探した。顔はぼんやりとしか覚えていなかったけれど、ほぼそれで正解だった。目鼻立ちのはっきりとした、美人なほうだと思う。
約束の午後一時。の少し前には美咲と華子は無事に再会し、近くのカフェに入った。二人とも昼ご飯を済ませていたので、飲み物だけ注文した。
「ハナちゃん──私のこと忘れてたって聞いたんやけど」
美咲が言うと、華子は少し気まずそうな顔をした。
「ごめん、完全に忘れてたわけではないねん。一応、覚えてたで」
申し訳なさそうに謝りながらも華子は笑顔のままだ。それでも許せてしまうのは、彼女が美人だからだろうか。
「美咲ちゃんっていう子がいた、とは覚えててん。ただ、どんな子やったかはっきり思い出せんかって……。実家帰ったときに卒アル見て、顔見たら思い出した!」
中学の頃から相変わらず、華子はノンストップで話す癖がある。
「美咲ちゃんって、ピアノ弾けたよな? よく合唱コンクールで伴奏してた、選択授業とかでも」
「うん。よく覚えてたね」
「そりゃあ、上手かったもん」
美咲は幼い頃からピアノを習っていて、学校ではよく歌の伴奏を担当していた。誰が弾くかを決めるときに、『どうせ紀伊になるんやろな』と誰かが呟くのを聞いたこともある。中学二年の反抗期の頃に習うのは辞めてしまったけれど、趣味としては今でも続けている。
「それで、私に話って?」
「そうそう、ちょっと前から考えてたんやけど、同窓会せーへん?」
「同窓会?」
「私ら、せっかく親戚になったんやし、他のみんながどうなってんのかとか気になるやん?」
「まぁ、そうやけど……」
中学を卒業して以来ほとんど同級生とは会っていないので、仲良くしていた人達の近況は美咲も気になっていた。進学してから疎遠になった友人たちと、友人ではなかったけれど接することが多かった人気男子たち。
面倒な幹事は華子が引き受けてくれるというので良かったけれど、もしかすると手伝いを依頼されるのではないか、という嫌な予感は見事に的中した──。
二十代後半で付き合っていた恋人とは三十路目前で破局し、焦りを感じていたときに知り合いから小山航を紹介された。初対面が結婚前提だった上に性格も違ったので戸惑ったけれど、長く一緒にいて疲れるかと聞かれると『いいえ』という感想だった。
これまでに付き合っていた人たちとの違いはおそらく、育った環境にあった。美咲はずっと普通の核家族の、できれば長男ではない人を選んできた。義両親といきなり同居するのは嫌だったし、大きい家の後取りというのも、面倒くさいことになりそうな気がして、何も気にしなくて良さそうな平凡な人、かつ家を出て都会で一人暮らしをしている人を選びがちだった。
けれど紹介された航は、両親と祖父母の三世代で暮らしていたらしい。住んでいるのも都会ではなく、昔からある少し田舎の町。彼の育った環境を聞くたびに、将来のことが心配になった──けれど。
似たような環境で育った美咲は航に親近感を覚えたし、彼も彼の両親も、『同じ三世代で暮らしてきてるから合うと思う』と言っていた。航を断ってすぐに他の人と出会える保証もなかったので、美咲は覚悟を決めて彼を選んだ。
普段生活しているマンションの近くに義実家があって、週末はよく航と二人で顔を出していた。
「あのな、私の兄のお嫁さん、江井市から来てるねん」
そんな話を始めたのは義母だった。江井市は美咲が生まれ育ったところだ。
「佐藤商店って知ってる? あそこの人でな。確か美咲ちゃんくらいの女の子おったって聞いた気するけど」
佐藤商店は駅前にある小さな売店だった。店が開いていたとき美咲はまだ小さかったので、店内のことは覚えていないけれど。
「あ──いました。お店のことも言ってました」
同じクラスになったことも、深い話をしたこともなかったけれど。
駅前の目立つところにお店があったので、華子が店と関係している、と知ってから駅に行く度に思い出していた。売り上げの関係か人手不足だったのか、いつしか店はシャッターを閉めたままになった。
用事ができて美咲が航と義母の実家に行ったとき、江井市の話になった。義母の兄も仕事で江井市に行ったことがあるようで、江井市についていちばん知識が少ない航は少し放置されていた。
「聞いた? 私の実家のほうに美咲ちゃんと同級生の子いてるって」
「はい。聞きました」
「ハナちゃんていう、花じゃなくて」
「華やかの華ですよね」
「そうそう」
「でもハナちゃんに美咲ちゃんのこと聞いたら、覚えてない、って……」
中学を卒業してずいぶん経っているので、忘れられていても仕方がない。もしかすると、特に思い出がないから面倒で知らないふりをしたのかもしれない。
(それはそれで嫌やけどなぁ)
華子はいま地元から遠いところで一人暮らしをしていて、会社でもわりと人気者らしい。
「江井市に佐藤さんっておったって言うてたやろ? あの子が美咲ちゃんに会いたいんやって」
いつものように義実家に行った週末、義母が美咲に言った。
「詳しいことは知らんけど、いろいろ思い出したから話したいって」
美咲は特に話したいことはなかったけれど。
結婚して専業主婦になり時間に余裕があったので、華子と会うことになった。久しぶりすぎて会ってもわからない可能性があったので、時間と場所は美咲が指定した。江井市の駅前の、佐藤商店の前だ。
華子と会う前に、美咲は実家に寄った。
「えーっと、アルバムは……あった」
中学の卒業アルバムのページをめくり、華子を探した。顔はぼんやりとしか覚えていなかったけれど、ほぼそれで正解だった。目鼻立ちのはっきりとした、美人なほうだと思う。
約束の午後一時。の少し前には美咲と華子は無事に再会し、近くのカフェに入った。二人とも昼ご飯を済ませていたので、飲み物だけ注文した。
「ハナちゃん──私のこと忘れてたって聞いたんやけど」
美咲が言うと、華子は少し気まずそうな顔をした。
「ごめん、完全に忘れてたわけではないねん。一応、覚えてたで」
申し訳なさそうに謝りながらも華子は笑顔のままだ。それでも許せてしまうのは、彼女が美人だからだろうか。
「美咲ちゃんっていう子がいた、とは覚えててん。ただ、どんな子やったかはっきり思い出せんかって……。実家帰ったときに卒アル見て、顔見たら思い出した!」
中学の頃から相変わらず、華子はノンストップで話す癖がある。
「美咲ちゃんって、ピアノ弾けたよな? よく合唱コンクールで伴奏してた、選択授業とかでも」
「うん。よく覚えてたね」
「そりゃあ、上手かったもん」
美咲は幼い頃からピアノを習っていて、学校ではよく歌の伴奏を担当していた。誰が弾くかを決めるときに、『どうせ紀伊になるんやろな』と誰かが呟くのを聞いたこともある。中学二年の反抗期の頃に習うのは辞めてしまったけれど、趣味としては今でも続けている。
「それで、私に話って?」
「そうそう、ちょっと前から考えてたんやけど、同窓会せーへん?」
「同窓会?」
「私ら、せっかく親戚になったんやし、他のみんながどうなってんのかとか気になるやん?」
「まぁ、そうやけど……」
中学を卒業して以来ほとんど同級生とは会っていないので、仲良くしていた人達の近況は美咲も気になっていた。進学してから疎遠になった友人たちと、友人ではなかったけれど接することが多かった人気男子たち。
面倒な幹事は華子が引き受けてくれるというので良かったけれど、もしかすると手伝いを依頼されるのではないか、という嫌な予感は見事に的中した──。