Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─
第25話 バレンタインの勘違い
美咲は妊娠していたことを自分でHarmonieのメンバーに話すことにした。初めは美咲は休ませて代わりに井庭が話す案が出されたけれど、美咲が嫌だと言った。入って一年も経たないうちに休むことになって申し訳なくて、音楽が、歌が、Harmonieが好きな気持ちを伝えておきたくて、出産後には戻ってくると約束したくて、休まず練習に行った。
「春のコンサートまでは頑張るつもりやけど、絶対来れる保証はないから……そのときは、ごめんね。コンサート終わったら、しばらく休みます」
「小山さんは『自分がやる!』って言ってるけど、もしもあかんかったときのために……誰かに伴奏練習しといてもらいたいんやけど」
井庭はメンバーを見渡して、ピアノが弾ける何人かに声を掛けた。秋のコンサートで弾いたものよりは確実に易しいので大丈夫だ、と美咲もフォローする。そもそも安定するまではお腹に力を入れたくないので、難しければ自分から断った。えいこんとの合同練習でも歌う曲なので、Harmonie単独の練習のためにも出来れば伴奏が欲しい。
候補に上がったうちの一人が受けてくれたので、美咲は安心した。それでもコンサートでは弾きたいという気持ちが強いので、いろいろ複雑だ。
メンバーのお姉さんたちにアドバイスをもらいながら、美咲は自分のペースで練習に通った。行きは航に、帰りは朋之に送ってもらう予定にしていたけれど、朋之が何度か玄関まで来ているうちに航と仲良くなったようで、往復とも朋之が送ることになった。
「私はどっちでも良いんやけど、航……良いん?」
「ええよ。家近いし、俺も楽やし。あ──あの噂、俺は絶対嘘やって信じてるから。普通にええ奴やん」
その背景には美咲への気持ちがあるような気がしなくもないけれど。
練習のときだけなら、という条件で航が許可してくれたので、美咲が練習に行くときは朋之と一緒だった。航は朋之にお礼をしたかったようで、何度か夕食に誘った。
「ありがたいけど……なんか変な感じやな」
美咲ももちろん同じで、航もきっとそうだ。航には真実を話していないけれど、何かあったとは思っているはずだ。
二月のとある日曜日、公民館に車を停めて外に出ると、見覚えのある車が一台入ってきた。美咲と朋之が待っていると、予想通りの人物が運転席から降りてきた。
「あら、お揃いで。一緒に来たの?」
「先生……実は……」
「実は……? え? 待って、あなたたち」
「あっ、違います、違いますよ?」
美咲と朋之の関係をおそらく誤解した篠山を美咲は慌てて制し、とりあえず中に入る。ゆっくり話したかったので、暖かい場所へ移った。
「そうなの? おめでたいけど、大変になるね」
朋之が連絡事項を伝えて練習が始まってから、美咲は篠山に妊娠のことを話した。往復ともに朋之が送ってくれるという話をすると笑っていたということは、篠山は二人の関係に二十年前から気付いていたのだろうか。
「うちで合同練習したいっていう話……美咲ちゃんの参加はやっぱり認めません」
「そうですよね……。でも私は春から休むし」
「見学なら、いつでもおいで。実家からやったら、うちのほうが近いやろ? 生まれてからも、連れてきてくれて良いよ」
「泣いたら、迷惑じゃないですか?」
「私が見たいの。だから来てね」
でもコンクール前はピリピリしてるかもねぇ、と笑いながら篠山はメンバーの練習を聞いていた。合同練習に参加する最初のメンバーは、篠山が決めることになったらしい。
「あ──でも、山口君は入れたらあかんなぁ? 美咲ちゃんが来られへんか」
「良いですよ、旦那に送ってもらうから」
「俺は……、先生に任せます」
「どうしようかな……あのねえ、私、Harmonieでは山口君が一番レベル高いと思ってるのよ。井庭先生も認めてるし……」
篠山が井庭と相談した結果、朋之はしばらくHarmonieを見ていることになった。朋之と美咲を除いたメンバーから十人ほど選び、次の練習日から来ないかと提案する。ちなみにえいこんは土曜日に練習しているので、Harmonieの練習を抜ける心配はない。
練習が終わってミーティングの最後に、美咲はメンバーに少し待つように言った。それから井庭を呼んで、お菓子が入った袋を差し出した。
「今日はバレンタインなので、みんなでどうぞ」
「お! ありがとう! 女性も?」
「はい。井庭先生も……あ、篠山先生も、もらってください」
良いものを人数分用意するのは無理だったので、一口サイズのチョコの袋をいくつか混ぜてきた。メンバーたち、特に独身男性陣と甘いものが大好きなお姉さんたちが一斉に群がりだす。
朋之は落ち着くのを待ってから取りに行っていたけれど、彼は甘すぎるものが苦手なのは美咲も知っていた。
「だから、はい。みんなに秘密やで」
「え? なにこれ、高そうやん。ありがとう」
朋之には車に乗ってから追加で渡した。
妊娠したことを母親に連絡すると、動けるうちに行きたいところに行こうという話になった。美咲はチョコレート店『Mary(Madame Delluc)』にずっと行きたかった。ベルギーに行ったときに買って食べて、一口目で衝撃を受けた。ツアーの添乗員や現地ガイドは、日本に店はなく催事のときに運が良ければ会える、と言っていたけれど、京都に日本一号店が出来たばかりだと帰国後に知った。今は日本にも何店舗かあるけれど、美咲は母親と京都に行ってきた。
「ビターなやつ選んだつもり。自分が食べたくて他にも買ってるから。送ってもらってるお礼もあるし」
一粒五百円ほどするので四粒しか買えていない。ちなみに航も甘いものが苦手なので、同じように六粒買ってきた。自分用には奮発して──トリュフチョコの詰め合わせと、一口サイズの板チョコの詰め合わせを買った。チョコは全て結婚前に稼いだお金から出したので、食べすぎなければ誰にも文句は言われないはずだ。
「春のコンサートまでは頑張るつもりやけど、絶対来れる保証はないから……そのときは、ごめんね。コンサート終わったら、しばらく休みます」
「小山さんは『自分がやる!』って言ってるけど、もしもあかんかったときのために……誰かに伴奏練習しといてもらいたいんやけど」
井庭はメンバーを見渡して、ピアノが弾ける何人かに声を掛けた。秋のコンサートで弾いたものよりは確実に易しいので大丈夫だ、と美咲もフォローする。そもそも安定するまではお腹に力を入れたくないので、難しければ自分から断った。えいこんとの合同練習でも歌う曲なので、Harmonie単独の練習のためにも出来れば伴奏が欲しい。
候補に上がったうちの一人が受けてくれたので、美咲は安心した。それでもコンサートでは弾きたいという気持ちが強いので、いろいろ複雑だ。
メンバーのお姉さんたちにアドバイスをもらいながら、美咲は自分のペースで練習に通った。行きは航に、帰りは朋之に送ってもらう予定にしていたけれど、朋之が何度か玄関まで来ているうちに航と仲良くなったようで、往復とも朋之が送ることになった。
「私はどっちでも良いんやけど、航……良いん?」
「ええよ。家近いし、俺も楽やし。あ──あの噂、俺は絶対嘘やって信じてるから。普通にええ奴やん」
その背景には美咲への気持ちがあるような気がしなくもないけれど。
練習のときだけなら、という条件で航が許可してくれたので、美咲が練習に行くときは朋之と一緒だった。航は朋之にお礼をしたかったようで、何度か夕食に誘った。
「ありがたいけど……なんか変な感じやな」
美咲ももちろん同じで、航もきっとそうだ。航には真実を話していないけれど、何かあったとは思っているはずだ。
二月のとある日曜日、公民館に車を停めて外に出ると、見覚えのある車が一台入ってきた。美咲と朋之が待っていると、予想通りの人物が運転席から降りてきた。
「あら、お揃いで。一緒に来たの?」
「先生……実は……」
「実は……? え? 待って、あなたたち」
「あっ、違います、違いますよ?」
美咲と朋之の関係をおそらく誤解した篠山を美咲は慌てて制し、とりあえず中に入る。ゆっくり話したかったので、暖かい場所へ移った。
「そうなの? おめでたいけど、大変になるね」
朋之が連絡事項を伝えて練習が始まってから、美咲は篠山に妊娠のことを話した。往復ともに朋之が送ってくれるという話をすると笑っていたということは、篠山は二人の関係に二十年前から気付いていたのだろうか。
「うちで合同練習したいっていう話……美咲ちゃんの参加はやっぱり認めません」
「そうですよね……。でも私は春から休むし」
「見学なら、いつでもおいで。実家からやったら、うちのほうが近いやろ? 生まれてからも、連れてきてくれて良いよ」
「泣いたら、迷惑じゃないですか?」
「私が見たいの。だから来てね」
でもコンクール前はピリピリしてるかもねぇ、と笑いながら篠山はメンバーの練習を聞いていた。合同練習に参加する最初のメンバーは、篠山が決めることになったらしい。
「あ──でも、山口君は入れたらあかんなぁ? 美咲ちゃんが来られへんか」
「良いですよ、旦那に送ってもらうから」
「俺は……、先生に任せます」
「どうしようかな……あのねえ、私、Harmonieでは山口君が一番レベル高いと思ってるのよ。井庭先生も認めてるし……」
篠山が井庭と相談した結果、朋之はしばらくHarmonieを見ていることになった。朋之と美咲を除いたメンバーから十人ほど選び、次の練習日から来ないかと提案する。ちなみにえいこんは土曜日に練習しているので、Harmonieの練習を抜ける心配はない。
練習が終わってミーティングの最後に、美咲はメンバーに少し待つように言った。それから井庭を呼んで、お菓子が入った袋を差し出した。
「今日はバレンタインなので、みんなでどうぞ」
「お! ありがとう! 女性も?」
「はい。井庭先生も……あ、篠山先生も、もらってください」
良いものを人数分用意するのは無理だったので、一口サイズのチョコの袋をいくつか混ぜてきた。メンバーたち、特に独身男性陣と甘いものが大好きなお姉さんたちが一斉に群がりだす。
朋之は落ち着くのを待ってから取りに行っていたけれど、彼は甘すぎるものが苦手なのは美咲も知っていた。
「だから、はい。みんなに秘密やで」
「え? なにこれ、高そうやん。ありがとう」
朋之には車に乗ってから追加で渡した。
妊娠したことを母親に連絡すると、動けるうちに行きたいところに行こうという話になった。美咲はチョコレート店『Mary(Madame Delluc)』にずっと行きたかった。ベルギーに行ったときに買って食べて、一口目で衝撃を受けた。ツアーの添乗員や現地ガイドは、日本に店はなく催事のときに運が良ければ会える、と言っていたけれど、京都に日本一号店が出来たばかりだと帰国後に知った。今は日本にも何店舗かあるけれど、美咲は母親と京都に行ってきた。
「ビターなやつ選んだつもり。自分が食べたくて他にも買ってるから。送ってもらってるお礼もあるし」
一粒五百円ほどするので四粒しか買えていない。ちなみに航も甘いものが苦手なので、同じように六粒買ってきた。自分用には奮発して──トリュフチョコの詰め合わせと、一口サイズの板チョコの詰め合わせを買った。チョコは全て結婚前に稼いだお金から出したので、食べすぎなければ誰にも文句は言われないはずだ。