Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─
第42話 秘密兵器
Harmonieが退場したあとに演奏することは、華子にも裕人にも秘密にしていた。せっかくなので、どうせなら、あの頃の思い出の曲を、ということで浮かんだ曲は二人で同じだった。
美咲が二十年前からずっと捨てられずにいた楽譜は、朋之も持っていた。同じように色褪せて、ファイル代わりになっていた厚紙は楽譜以上に茶色くなっていた。朋之が離婚したあと引っ越しの荷物の中に見つけたときは、嬉しさと切なさで胸が張り裂けそうだった。
旧友や恩師たちとの語らいが始まるのを待って、音を立てないように静かに準備した。マイクは通さずに楽器だけの力で、BGMになることを目指した。残念ながら気づいた人たちは聞き入ってしまっていたけれど、そのまま弾き続けた。
一曲が終わって少ししてから、同じく静かに演奏したのは校歌だ。これは手元に楽譜がなくて美咲が伴奏を覚えているだけだったので、改めて五線譜に書いた。校歌のアレンジは恩師たちに好評だったようで、後に母校に音源を提供することになった。
演奏を終えてステージを降りると、旧友たちから質問が絶えなかった。当時のことを知る人からは特に、いつの間に仲良くなったのかと聞かれた。当時は会話もなかったのに、高校も違ったのにと、同窓会の主役になってしまった。
「近くで見てた俺もビックリやったからな」
数年の出来事を振り返りながら裕人は笑う。
美咲と朋之に何があったのかは、彩加と佳樹には簡単に説明されていた。美咲も彩加と話をして、とりあえずは以前のような関係に戻った。
「最初はな、トモ君が紀伊のこと好きやったって知ってたけど、二人とも結婚してたし、昔話でもしよか、くらいにしか思ってなかってんで。それがまさかな」
飲み会の頃はぎこちなかったし、二人とも適度に距離を取っていた。それが朋之が離婚になって、少しずつ変わった。美咲にはまだ航がいたけれど、ギリギリのところまで朋之は詰めてきた。そして美咲も離婚になって、再婚を決意したのは美歌のおかげだった。
「美歌がなぁ……トモの顔見たら大喜びしてたから……」
「返事くれたときも、俺らのことじゃなくて、美歌のパパに、やったもんな」
美歌は二歳半になり、話す言葉も、美咲と朋之の真似をすることも増えた。おもちゃのピアノを楽しそうに叩いたり、ギターの弦を弾いたりしていた。マンションで大きな音は出せないので、ときどきスタジオにも一緒に連れて行った。
「トモ君に抱かれて泣き止んだこともあったよな」
「今はイヤイヤがひどいけどな」
美歌に気に入られて喜んでいた朋之でも、さすがにイヤイヤ期の美歌には手を焼いていた。ご飯がイヤ、お風呂もイヤ、寝るのもイヤ、美咲が家事をしている間は朋之はいつも美歌に困らされた。
「平日の昼間とか、美咲一人で大変やろ?」
朋之は美咲に同情したけれど。
「……秘密兵器があるから大丈夫」
「秘密兵器? えっ、それ、俺も使いたい」
「ははは、持ってるやん。さっきも使ってたし。私が妊娠してるときにくれたHarmonieのCD、あれかけたら、ちゃんと聞いてくれる」
「……俺が歌えば良いってことか」
「そういうこと」
美咲はともかく美歌までも、朋之の歌声がお気に入りだった。マンションでは舞台のようには歌えないので、思いきり楽器を弾きたいのもあって近いうちに一軒家に引っ越そうという話も出てきている。
同窓会も終わりに近づいて、美咲のところに篠山がやってきた。二十年前の思い出を話しながら、朋之と一緒にえいこんとHarmonieの話になった。
「前に私、美咲ちゃんはえいこん出禁、って言ったんやけど……条件付きで解除します」
「えっ? 何か、あるんですか?」
「うちもやけど、Harmonieも夏に定演あるやろ? 井庭先生と話してて、何年かに一回は合同ですることになったの」
「曲によっては、美咲の伴奏でな」
「え? ──また私に内緒で話進めてたん?」
活動地域が近く同じイベントに出ることも多いので、メンバーも既に仲良くなっていた。合同で定演をすることは、合同練習を始めた頃から話が出ていたらしい。
美咲もまだまだ美歌の育児があるけれど、えいこんのピアニストも本業の演奏会や講師の仕事が忙しくなって、えいこんに顔を出せないことが増えているらしい。
「そうなんや……すごいなぁ……」
美咲も中学の頃は音楽の道に進むつもりにしていたし篠山もそうなるだろうと言っていたけれど、高校では勉強が大変で音楽の授業は一年しかなかった。大学も音大は諦めて、文学部へ行った。
だから余計に美咲にとって、好きなことを思い切りできた中学時代が一番の青春になった。当時のことが忘れられないのは、そこで止まってしまっているからだ。
「俺はそれで良かったと思ってるけど」
同窓会会場を出て練習室に向かいながら、朋之は美咲を振り返った。練習室は二階にあるので、友人たちと別れてから二人で階段を上る。
「もしピアニストとかなってたら、前の同窓会はあったとしても、Harmonieには入らんかったやろ? そしたら、今はないやん」
美咲はもしかすると、イケメンピアニストに出会っていたかも知れないけれど。それはそれで、えいこんに出会って篠山と再会することもなかったかもしれない。
「俺もやけどな……。今の会社に入ってなかったら──再婚はなかったかもな」
「そこは慰謝料払ってでも離婚してたとか言ってくれへんの?」
「えっ、その……あっ、おい」
不敵に笑う美咲に朋之は怯み、僅かな隙を狙って美咲は彼の手を取って階段を駆け上がる。彼が真面目なのは知っているから、返事に困っているのは想定内だ。
「私なら、したけどなぁ」
美咲は最初に、旦那を裏切るつもりはない、と言って朋之も同意していたけれど。本当はあのとき朋之には、同意せずに押してきてほしかった。
「……してた、してたから、走るな」
「やったぁ!」
けれど美咲は止まらすに、二階まで走った。朋之はそのまま練習室のほうを向いたけれど、美咲が止まったので引き戻されていた。
「美咲ちゃーん!」
一階入口のほうから彩加の声がした。隣には華子もいた。
「明日、来るからー! 楽しみにしてるー!」
「……ありがとう! 頑張るー!」
美咲は彩加と華子に手を振ってから、今度こそ朋之と一緒に練習室へ向かった。
Harmonieの代表が井庭から朋之に変わるのも、美咲がえいこんのピアニストの代役になることが増えるのも、美歌が大きくなってHarmonieに入るのも、もう少し先の話。
美咲が二十年前からずっと捨てられずにいた楽譜は、朋之も持っていた。同じように色褪せて、ファイル代わりになっていた厚紙は楽譜以上に茶色くなっていた。朋之が離婚したあと引っ越しの荷物の中に見つけたときは、嬉しさと切なさで胸が張り裂けそうだった。
旧友や恩師たちとの語らいが始まるのを待って、音を立てないように静かに準備した。マイクは通さずに楽器だけの力で、BGMになることを目指した。残念ながら気づいた人たちは聞き入ってしまっていたけれど、そのまま弾き続けた。
一曲が終わって少ししてから、同じく静かに演奏したのは校歌だ。これは手元に楽譜がなくて美咲が伴奏を覚えているだけだったので、改めて五線譜に書いた。校歌のアレンジは恩師たちに好評だったようで、後に母校に音源を提供することになった。
演奏を終えてステージを降りると、旧友たちから質問が絶えなかった。当時のことを知る人からは特に、いつの間に仲良くなったのかと聞かれた。当時は会話もなかったのに、高校も違ったのにと、同窓会の主役になってしまった。
「近くで見てた俺もビックリやったからな」
数年の出来事を振り返りながら裕人は笑う。
美咲と朋之に何があったのかは、彩加と佳樹には簡単に説明されていた。美咲も彩加と話をして、とりあえずは以前のような関係に戻った。
「最初はな、トモ君が紀伊のこと好きやったって知ってたけど、二人とも結婚してたし、昔話でもしよか、くらいにしか思ってなかってんで。それがまさかな」
飲み会の頃はぎこちなかったし、二人とも適度に距離を取っていた。それが朋之が離婚になって、少しずつ変わった。美咲にはまだ航がいたけれど、ギリギリのところまで朋之は詰めてきた。そして美咲も離婚になって、再婚を決意したのは美歌のおかげだった。
「美歌がなぁ……トモの顔見たら大喜びしてたから……」
「返事くれたときも、俺らのことじゃなくて、美歌のパパに、やったもんな」
美歌は二歳半になり、話す言葉も、美咲と朋之の真似をすることも増えた。おもちゃのピアノを楽しそうに叩いたり、ギターの弦を弾いたりしていた。マンションで大きな音は出せないので、ときどきスタジオにも一緒に連れて行った。
「トモ君に抱かれて泣き止んだこともあったよな」
「今はイヤイヤがひどいけどな」
美歌に気に入られて喜んでいた朋之でも、さすがにイヤイヤ期の美歌には手を焼いていた。ご飯がイヤ、お風呂もイヤ、寝るのもイヤ、美咲が家事をしている間は朋之はいつも美歌に困らされた。
「平日の昼間とか、美咲一人で大変やろ?」
朋之は美咲に同情したけれど。
「……秘密兵器があるから大丈夫」
「秘密兵器? えっ、それ、俺も使いたい」
「ははは、持ってるやん。さっきも使ってたし。私が妊娠してるときにくれたHarmonieのCD、あれかけたら、ちゃんと聞いてくれる」
「……俺が歌えば良いってことか」
「そういうこと」
美咲はともかく美歌までも、朋之の歌声がお気に入りだった。マンションでは舞台のようには歌えないので、思いきり楽器を弾きたいのもあって近いうちに一軒家に引っ越そうという話も出てきている。
同窓会も終わりに近づいて、美咲のところに篠山がやってきた。二十年前の思い出を話しながら、朋之と一緒にえいこんとHarmonieの話になった。
「前に私、美咲ちゃんはえいこん出禁、って言ったんやけど……条件付きで解除します」
「えっ? 何か、あるんですか?」
「うちもやけど、Harmonieも夏に定演あるやろ? 井庭先生と話してて、何年かに一回は合同ですることになったの」
「曲によっては、美咲の伴奏でな」
「え? ──また私に内緒で話進めてたん?」
活動地域が近く同じイベントに出ることも多いので、メンバーも既に仲良くなっていた。合同で定演をすることは、合同練習を始めた頃から話が出ていたらしい。
美咲もまだまだ美歌の育児があるけれど、えいこんのピアニストも本業の演奏会や講師の仕事が忙しくなって、えいこんに顔を出せないことが増えているらしい。
「そうなんや……すごいなぁ……」
美咲も中学の頃は音楽の道に進むつもりにしていたし篠山もそうなるだろうと言っていたけれど、高校では勉強が大変で音楽の授業は一年しかなかった。大学も音大は諦めて、文学部へ行った。
だから余計に美咲にとって、好きなことを思い切りできた中学時代が一番の青春になった。当時のことが忘れられないのは、そこで止まってしまっているからだ。
「俺はそれで良かったと思ってるけど」
同窓会会場を出て練習室に向かいながら、朋之は美咲を振り返った。練習室は二階にあるので、友人たちと別れてから二人で階段を上る。
「もしピアニストとかなってたら、前の同窓会はあったとしても、Harmonieには入らんかったやろ? そしたら、今はないやん」
美咲はもしかすると、イケメンピアニストに出会っていたかも知れないけれど。それはそれで、えいこんに出会って篠山と再会することもなかったかもしれない。
「俺もやけどな……。今の会社に入ってなかったら──再婚はなかったかもな」
「そこは慰謝料払ってでも離婚してたとか言ってくれへんの?」
「えっ、その……あっ、おい」
不敵に笑う美咲に朋之は怯み、僅かな隙を狙って美咲は彼の手を取って階段を駆け上がる。彼が真面目なのは知っているから、返事に困っているのは想定内だ。
「私なら、したけどなぁ」
美咲は最初に、旦那を裏切るつもりはない、と言って朋之も同意していたけれど。本当はあのとき朋之には、同意せずに押してきてほしかった。
「……してた、してたから、走るな」
「やったぁ!」
けれど美咲は止まらすに、二階まで走った。朋之はそのまま練習室のほうを向いたけれど、美咲が止まったので引き戻されていた。
「美咲ちゃーん!」
一階入口のほうから彩加の声がした。隣には華子もいた。
「明日、来るからー! 楽しみにしてるー!」
「……ありがとう! 頑張るー!」
美咲は彩加と華子に手を振ってから、今度こそ朋之と一緒に練習室へ向かった。
Harmonieの代表が井庭から朋之に変わるのも、美咲がえいこんのピアニストの代役になることが増えるのも、美歌が大きくなってHarmonieに入るのも、もう少し先の話。