脱走悪役令嬢には、処刑人として雇われた追手騎士に溺愛されるルートが待っていました
5.異世界からの転生者
「どういう意味だ?」
ナタリーの予想に反しない疑問符を、騎士が投げ掛けた。
「もし、処刑を命じられたのがナタリーでなかったなら、それでもあなたは女という理由だけで、命を奪わず逃がす道を選んだ?」
「………ナタリー以外に、処刑台送りになるような女はなかなかいないと思うが」
「それでもよ」
「何を言いたいのか分からないが、どうするかはその場にならないと分からないし、相手にもよる。お前みたいに理不尽な理由で処刑されようとしているのなら、むやみに命は奪わない」
口に入っている肉切れを、騎士が葡萄酒で流し込む。
「ナタリーに特別な感情はないと言い切れる?」
「さっきから、何を言わせたい?」
騎士が溜め息をついて見せた。
「その返答次第で、私にはあなたに言わなくてはいけないことがある」
急にナタリーが大真面目な目を向けたので、騎士も何となく畏まった。
「何を聞きたいのか分からないが、何の感情もなく助けたのかと問われれば答えは“いいえ”だ。その理由は本当に些細なことで、お前はきっと覚えてもいない」
ナタリーは、やっぱり…と思った。
「そこまで聞ければ十分。少しだけ私の話を聞いてくれる?とても信用はできないと思うけど」
騎士は少し戸惑いながらも、うんと首を縦に振った。
「ナタリーは酒に弱かったんだな。少し夜風に当たって酔いを覚ましてくるといい」
騎士が怪訝な顔を通り越して、不安そうな声を出した。
「あー、うん、そうだよね。信じられない気持ちはよく分かる。でもね、本当なんだって」
「自分は異世界の人間で、気がついたら牢にいたナタリーに転生とやらをしていたと?」
「そう。見た目はナタリーそのままだけど、意識が違うの!私はナタリーではなく、茜!私の名前は茜」
ナタリーがテーブルから身を乗り出すと、葡萄酒の入った二つのグラスがグラグラと揺れた。
「おかしいのは俺の方か…?」
「ああ、もう、そうよね。信じろっていう方がムリな話だった」
それ以上理解を求めるのをやめて、ナタリーはドスンと椅子に腰を下ろした。
「いや、そうではない。まだ現状についていけていないだけだ。よく考えれば、府に落ちることは多々あった。よく分からない言葉を口走ったり、この世界の状況や自らの身の上など知っているはずのことをよく分かっていなかったり…」
いやいや、しかしそれにしても、ちょっと待てと騎士が再度頭を抱え込んだ。
「そう、分からないことだらけよ。ナタリーのことすらもよく知らない…」
目の前にある硬くなり始めた肉にフォークを入れて切り分けると、ナタリーはそれを躊躇なく口に入れる。
「ナタリーには、過去にも何度か会ったことがあった。それがナタリーにとってどれほどの価値あるものだったのかは分からない。些細なことでしかなかったかもしれない」
騎士がぽつりぽつりと話し始めた。
「ナタリーはよく城の庭園にいた。俺はといえば処刑のために城へ呼ばれる日々。死神というのは世間が勝手に名付けただけで、その実はただの平民騎士。王に気に入られれば、その命を断ることはできない」
騎士が葡萄酒をぐびっと飲み干した。
ちょっと酔い始めているのか、騎士が饒舌になっていく。
「死神と呼ばれていても、人間だからな。心がないわけではない。罪人とはいえ、戦いの最中でもないところで人の命に手を掛けるのは気分のいいものではない。そんなとき決まって立ち寄るのが城の庭園だった」
「ナタリーとはそこで?」
「そうだ。城の中で唯一安らげる場所」
騎士がふいに遠い目をしながら話を続けた。
庭園には色とりどりな薔薇の花が咲き乱れていた。
その薔薇の香りを嗅ぎながら、真っ赤なベルベット調のドレスに身を包んだ美しいナタリーが問うた。
「あなたがアバロンの死神?」
騎士は返事を返すこともせずに、庭園に置かれたガーデンチェアにどっしりと腰を掛けていた。
「別に返事はいらないわ。私が勝手に話しているだけだから。私は東国から来たの。アーロンの元に嫁ぐために」
「………」
「でもアーロンは誰のことも愛してはいないわ。この国のための人形みたい」
ナタリーが黄色い薔薇を一本ブチっと千切った。
「でも祖国のため、私は自分のやるべきことを全うしなくては。たとえそれを望んでいなくても、それが私がここにいる理由だから」
「………」
それでも騎士は何も答えなかった。
「あなたも私と同じ香りがする。望まない未来へと足を踏み入れつつある者…」
そうとだけ告げてナタリーは城の中へと消えていった。
それから二人は、その薔薇の咲き乱れる庭園で何度か顔を合わせた。
特に何かを話すわけでもない。
触れ合うわけでもない。
ただ同じ時をしばし過ごす。
それが互いに一番辛い時間を耐えたあとの一時 だということを、騎士が知ったのはだいぶ後のことだった。
「一国の令嬢の生涯なんてつまらないものだわ。劇的な出会いや恋愛なんて夢物語でしかないもの」
相変わらず騎士は無言のままだったが、ナタリーの大きな瞳には涙が溢れていた。
「夜を幾度も共に過ごせば、多少は気持ちも通ずるかもしれないと思った私が馬鹿だった。別にアーロンを愛しているわけじゃない。それでも気持ちのない行為にはもううんざりよ…」
騎士は思わずナタリーの腕を掴むと、ぐいと自分の懐に引き寄せた。
好きでもない男に、国のためにと毎夜抱かれねばならない彼女の苦痛をおもんばかると、騎士はナタリーを抱き締めずにはいられなかった。
「噂では高飛車で気の強い女だと聞いていたが…?」
「そうよ。私は気が強いし、度胸もある方よ」
騎士の鎧からは鼻を突くような、濃い血の匂いがした。
「でもあなたの前ではなぜか弱みを見せたくなる」
ナタリーは騎士の甲を取ると、その美しい顔の頬に手を触れ哀しげに微笑んだ。
「いっそ、あなたの手で終わらせてくれたらいいのに…」
ナタリーはぼそりとそうとだけ呟いて、一度騎士の胸に顔を埋めてからその場を去った。
騎士とナタリーが触れ合ったのは、ただその一瞬だけ。
言葉はいらなかった。
与えられた運命に翻弄される二人は、その後会うことはなかった。
ナタリーが断罪され、挙げ句に脱走してその処刑の命を騎士が言い渡されるまでは…
「ナタリーは国家の転覆を謀ろうなんて、やはり思ってなかったのね…。ただ本当に祖国のためだけにアーロンの愛を勝ち得ようと必死だった。アーロンもそれを受け入れていたはずなのに、いざ国王に見つかると、命欲しさにいとも簡単にナタリーを裏切り、切り捨ててシャーロットを選んだ…」
「そういうことだ。しかし、投獄中に異世界から転生とやらをしてきたお前はそのナタリーではなく、アカネなのだと言いたいのだな」
ボトルからまた赤い葡萄酒をグラスに注ぎながら、騎士がちらりとナタリーを見やった。
「そう…私にはナタリーの記憶は残っていないし、残念ながら感情も引き継がれてはいないから、“私”はアーロンに怒りも悲しみも感じてはない。同時にあなたとの記憶もない」
騎士はどうりで…と信用したのかしていないのか分からないような返事だけを寄越した。
そうよね、複雑な心境に違いない。
見た目は、何かしらの感情を抱いていた相手そのものなのに、中身は別人で、しかも異世界から来た人間だなんて、普通なら受け入れられない。
「…でも彼女の気持ちは少し分かる気はする。死神なんて呼ばれているから、どれほどの恐ろしい人間かと怯えていたのに、この数日あなたはずっと私を気遣っていたし…」
ナタリーは騎士の顔をじっと見つめた。
「死神のくせに親切にされれば礼だってするし、何よりあの馬に向ける目は愛情に溢れてる。アーロンのことはよく知らないけど、あなたは彼よりずっと正常な心の持ち主だと思う」
騎士は鼻で笑いながら、並々と注いだグラスの葡萄酒を口に運んだ。
「そんなあなたを見抜いていたのね、ナタリーは」
「だが己の運命に逆らい、脱走など無謀なことをしでかしたのは、そのナタリーではなくお前。アカネなのだな」
「そういうこと」
ナタリーは千切ったパンにバターを塗ると、遠慮なくそれを口に入れる。
騎士はじっと目の前のナタリーを見つめた。
不安の中にあっても常に前向きで、運命に逆らおうと必死に抗うその強い姿。
ナタリーと同じ容姿ではあるが、その強さはナタリーではなく、自分をアカネだと言い張るこの“彼女”だったのだなと、騎士は改めて思った。
この数日、時折心を掴まれるような感覚を抱いたのは、ナタリーではなく彼女へだったのか…
「で、お前の話を信用するとして、もし南国へ逃れることができたら、戻りたいのか?元の世界に」
「信用してくれるの?」
二口目のパンを口に運ぼうとしていた手を止めて、ナタリーは騎士を見上げた。
「世界は常に不思議なことや訳の分からないことで満ち溢れているものだ。お前の話も、あるいはそういうこともあるのかもしれないと考えることにしよう。で、それを話したからには何か意図があったんじゃないのか?」
「え?あ、いや…元の私はこんなに美しくなんてないし、冴えないし、大事な仕事でミスはするし…そんなのあなたの知ってるナタリーではないじゃない?もし、あなたと本物のナタリーに何か関係があるのなら、このまま黙ってるわけにはいかないと思っただけで…」
そのままパクリと、先ほど入れ損ねたパンを口に放り込む。
「仕事でミスというのはよく分からないが、人の価値は実質的な強さや美しさばかりではないだろう。それに、元の世界にはお前を必要とする人間もいるのではないか?」
騎士のいつになく優しい声に、急に胸が詰まった。
「本当は、元の世界に戻れるのなら戻りたい!元の世界にもいろいろ問題はあるけど、やっぱり自分が生まれ育った世界には両親も友達も…彼氏もいるし…」
そう口にしてしまったら、ここに来てから押し込めていた思いがとめどなく沸き上がってくる。
「会いたい…元の世界の人たちに本当は今すぐにでも会いたい!」
ナタリーの目に涙が急に溢れた。
そんなナタリーに、何とも言われぬ愛しさを覚えて、騎士は手を伸ばしそっとその頭を撫でた。
「戻れる道を探そう。こちらに来れたということはきっと帰る方法もあるはずだ」
その落ち着いた声に、ナタリーの気持ちも冷静になっていく。
そうか、来れたということは何か原因があるはず。
それが分かれば、戻ることも可能かもしれない。
「ところで、親と友達は分かるが、カレシとは…?未知の世界の話とはいろいろと興味深い」
ナタリーから手を離して、騎士が頬杖をついて聞いた。
「あぁ、えっと、結婚前にお付き合いしている男性のことを向こうではそう呼ぶの。ちなみに女性のことは彼女」
「婚約者ということか?」
「あー…、厳密に言うと婚約者とはまた別かな。まあ、付き合いが長くなればそのまま婚約したり、結婚したりすることももちろんあるけど…」
結婚する気なんて、向こうには更々なかったし。
「そうか…。それは早く戻らないといけないな。そのカレシとやらも、さぞかし心配しているだろう…」
真剣にそう言った騎士を前に、涙を拭ってからナタリーは口を開いた。
「それはどうだろう…?浮気ばっかりで、ちょうど10回目の別れ話をしたところだったし。私がいなくなって清々してるんじゃないかな?」
ナタリーが、寂しさの欠片も見せずにあっけらかんと言い放つ。
「…ナタリーもだが、お前もよほど男運には見離されているな」
そんなナタリーに、騎士が呆れ顔をして見せた。
明朝早く、宿を出て、一時間ばかし行くと小高い丘の上に差し掛かった。
「あと一日ほど走れば、南国へと続く街道へと出られる」
騎士から借りた赤いマントを頭から被ったまま、ナタリーは遠方を見つめた。
「やっと南国ね。でも私を南国へ送り届けたら、あなたはアバロンの城へと戻るんでしょ?」
「………」
「だったら、そのあとは自分で元の世界へ帰る方法を見つけなきゃだわ。まずは生活の基盤を作るところからね…職も見つけて、何か武器とかもあった方がいいかしら?…まるでRPGをしてるみたい…」
腕を組みながらぶつぶつと独り言を喋っていたナタリーの口を、騎士が後ろから手で塞いだ。
「しっ……」
「な、なにっ?!」
小声で聞くと、騎士が鬼気迫る顔で指示をする。
「微かに鎧の金属音が聞こえる。急いで馬から降りて、下がれ」
これは尋常ではないと、ナタリーは言われたまま白馬からするりと降りて、二、三歩後ろへと下がった。
騎士もそれに続いて、ひらりと静かに地面へと着地する。
しばらくすると、微かだった金属音が次第に大きくなり、近付いてくるのが分かった。
騎士はすぐさま、腰の鞘に手を掛けた。
そこに現れたのは、黒い馬に乗った二メートルはゆうにありそうな大男だった。
大男は騎士の前まで来ると、馬から荒々しく降りて仁王立ちになり、声を張った。
「お前が死神か?」
「そうだが?」
「罪人の女とは、そこの女で間違いないな」
「だったら、何だ?」
「我が将の命により、罪人の首を頂戴致す」
大男はそう言うと剣を抜き、ナタリーに向かって突進したのだった。
きゃっ!と咄嗟に目を覆ったナタリーの前で騎士の半笑いの声が響いた。
「…できればの話だがな」
そして、話は冒頭に戻るー
ナタリーの予想に反しない疑問符を、騎士が投げ掛けた。
「もし、処刑を命じられたのがナタリーでなかったなら、それでもあなたは女という理由だけで、命を奪わず逃がす道を選んだ?」
「………ナタリー以外に、処刑台送りになるような女はなかなかいないと思うが」
「それでもよ」
「何を言いたいのか分からないが、どうするかはその場にならないと分からないし、相手にもよる。お前みたいに理不尽な理由で処刑されようとしているのなら、むやみに命は奪わない」
口に入っている肉切れを、騎士が葡萄酒で流し込む。
「ナタリーに特別な感情はないと言い切れる?」
「さっきから、何を言わせたい?」
騎士が溜め息をついて見せた。
「その返答次第で、私にはあなたに言わなくてはいけないことがある」
急にナタリーが大真面目な目を向けたので、騎士も何となく畏まった。
「何を聞きたいのか分からないが、何の感情もなく助けたのかと問われれば答えは“いいえ”だ。その理由は本当に些細なことで、お前はきっと覚えてもいない」
ナタリーは、やっぱり…と思った。
「そこまで聞ければ十分。少しだけ私の話を聞いてくれる?とても信用はできないと思うけど」
騎士は少し戸惑いながらも、うんと首を縦に振った。
「ナタリーは酒に弱かったんだな。少し夜風に当たって酔いを覚ましてくるといい」
騎士が怪訝な顔を通り越して、不安そうな声を出した。
「あー、うん、そうだよね。信じられない気持ちはよく分かる。でもね、本当なんだって」
「自分は異世界の人間で、気がついたら牢にいたナタリーに転生とやらをしていたと?」
「そう。見た目はナタリーそのままだけど、意識が違うの!私はナタリーではなく、茜!私の名前は茜」
ナタリーがテーブルから身を乗り出すと、葡萄酒の入った二つのグラスがグラグラと揺れた。
「おかしいのは俺の方か…?」
「ああ、もう、そうよね。信じろっていう方がムリな話だった」
それ以上理解を求めるのをやめて、ナタリーはドスンと椅子に腰を下ろした。
「いや、そうではない。まだ現状についていけていないだけだ。よく考えれば、府に落ちることは多々あった。よく分からない言葉を口走ったり、この世界の状況や自らの身の上など知っているはずのことをよく分かっていなかったり…」
いやいや、しかしそれにしても、ちょっと待てと騎士が再度頭を抱え込んだ。
「そう、分からないことだらけよ。ナタリーのことすらもよく知らない…」
目の前にある硬くなり始めた肉にフォークを入れて切り分けると、ナタリーはそれを躊躇なく口に入れる。
「ナタリーには、過去にも何度か会ったことがあった。それがナタリーにとってどれほどの価値あるものだったのかは分からない。些細なことでしかなかったかもしれない」
騎士がぽつりぽつりと話し始めた。
「ナタリーはよく城の庭園にいた。俺はといえば処刑のために城へ呼ばれる日々。死神というのは世間が勝手に名付けただけで、その実はただの平民騎士。王に気に入られれば、その命を断ることはできない」
騎士が葡萄酒をぐびっと飲み干した。
ちょっと酔い始めているのか、騎士が饒舌になっていく。
「死神と呼ばれていても、人間だからな。心がないわけではない。罪人とはいえ、戦いの最中でもないところで人の命に手を掛けるのは気分のいいものではない。そんなとき決まって立ち寄るのが城の庭園だった」
「ナタリーとはそこで?」
「そうだ。城の中で唯一安らげる場所」
騎士がふいに遠い目をしながら話を続けた。
庭園には色とりどりな薔薇の花が咲き乱れていた。
その薔薇の香りを嗅ぎながら、真っ赤なベルベット調のドレスに身を包んだ美しいナタリーが問うた。
「あなたがアバロンの死神?」
騎士は返事を返すこともせずに、庭園に置かれたガーデンチェアにどっしりと腰を掛けていた。
「別に返事はいらないわ。私が勝手に話しているだけだから。私は東国から来たの。アーロンの元に嫁ぐために」
「………」
「でもアーロンは誰のことも愛してはいないわ。この国のための人形みたい」
ナタリーが黄色い薔薇を一本ブチっと千切った。
「でも祖国のため、私は自分のやるべきことを全うしなくては。たとえそれを望んでいなくても、それが私がここにいる理由だから」
「………」
それでも騎士は何も答えなかった。
「あなたも私と同じ香りがする。望まない未来へと足を踏み入れつつある者…」
そうとだけ告げてナタリーは城の中へと消えていった。
それから二人は、その薔薇の咲き乱れる庭園で何度か顔を合わせた。
特に何かを話すわけでもない。
触れ合うわけでもない。
ただ同じ時をしばし過ごす。
それが互いに一番辛い時間を耐えたあとの一時 だということを、騎士が知ったのはだいぶ後のことだった。
「一国の令嬢の生涯なんてつまらないものだわ。劇的な出会いや恋愛なんて夢物語でしかないもの」
相変わらず騎士は無言のままだったが、ナタリーの大きな瞳には涙が溢れていた。
「夜を幾度も共に過ごせば、多少は気持ちも通ずるかもしれないと思った私が馬鹿だった。別にアーロンを愛しているわけじゃない。それでも気持ちのない行為にはもううんざりよ…」
騎士は思わずナタリーの腕を掴むと、ぐいと自分の懐に引き寄せた。
好きでもない男に、国のためにと毎夜抱かれねばならない彼女の苦痛をおもんばかると、騎士はナタリーを抱き締めずにはいられなかった。
「噂では高飛車で気の強い女だと聞いていたが…?」
「そうよ。私は気が強いし、度胸もある方よ」
騎士の鎧からは鼻を突くような、濃い血の匂いがした。
「でもあなたの前ではなぜか弱みを見せたくなる」
ナタリーは騎士の甲を取ると、その美しい顔の頬に手を触れ哀しげに微笑んだ。
「いっそ、あなたの手で終わらせてくれたらいいのに…」
ナタリーはぼそりとそうとだけ呟いて、一度騎士の胸に顔を埋めてからその場を去った。
騎士とナタリーが触れ合ったのは、ただその一瞬だけ。
言葉はいらなかった。
与えられた運命に翻弄される二人は、その後会うことはなかった。
ナタリーが断罪され、挙げ句に脱走してその処刑の命を騎士が言い渡されるまでは…
「ナタリーは国家の転覆を謀ろうなんて、やはり思ってなかったのね…。ただ本当に祖国のためだけにアーロンの愛を勝ち得ようと必死だった。アーロンもそれを受け入れていたはずなのに、いざ国王に見つかると、命欲しさにいとも簡単にナタリーを裏切り、切り捨ててシャーロットを選んだ…」
「そういうことだ。しかし、投獄中に異世界から転生とやらをしてきたお前はそのナタリーではなく、アカネなのだと言いたいのだな」
ボトルからまた赤い葡萄酒をグラスに注ぎながら、騎士がちらりとナタリーを見やった。
「そう…私にはナタリーの記憶は残っていないし、残念ながら感情も引き継がれてはいないから、“私”はアーロンに怒りも悲しみも感じてはない。同時にあなたとの記憶もない」
騎士はどうりで…と信用したのかしていないのか分からないような返事だけを寄越した。
そうよね、複雑な心境に違いない。
見た目は、何かしらの感情を抱いていた相手そのものなのに、中身は別人で、しかも異世界から来た人間だなんて、普通なら受け入れられない。
「…でも彼女の気持ちは少し分かる気はする。死神なんて呼ばれているから、どれほどの恐ろしい人間かと怯えていたのに、この数日あなたはずっと私を気遣っていたし…」
ナタリーは騎士の顔をじっと見つめた。
「死神のくせに親切にされれば礼だってするし、何よりあの馬に向ける目は愛情に溢れてる。アーロンのことはよく知らないけど、あなたは彼よりずっと正常な心の持ち主だと思う」
騎士は鼻で笑いながら、並々と注いだグラスの葡萄酒を口に運んだ。
「そんなあなたを見抜いていたのね、ナタリーは」
「だが己の運命に逆らい、脱走など無謀なことをしでかしたのは、そのナタリーではなくお前。アカネなのだな」
「そういうこと」
ナタリーは千切ったパンにバターを塗ると、遠慮なくそれを口に入れる。
騎士はじっと目の前のナタリーを見つめた。
不安の中にあっても常に前向きで、運命に逆らおうと必死に抗うその強い姿。
ナタリーと同じ容姿ではあるが、その強さはナタリーではなく、自分をアカネだと言い張るこの“彼女”だったのだなと、騎士は改めて思った。
この数日、時折心を掴まれるような感覚を抱いたのは、ナタリーではなく彼女へだったのか…
「で、お前の話を信用するとして、もし南国へ逃れることができたら、戻りたいのか?元の世界に」
「信用してくれるの?」
二口目のパンを口に運ぼうとしていた手を止めて、ナタリーは騎士を見上げた。
「世界は常に不思議なことや訳の分からないことで満ち溢れているものだ。お前の話も、あるいはそういうこともあるのかもしれないと考えることにしよう。で、それを話したからには何か意図があったんじゃないのか?」
「え?あ、いや…元の私はこんなに美しくなんてないし、冴えないし、大事な仕事でミスはするし…そんなのあなたの知ってるナタリーではないじゃない?もし、あなたと本物のナタリーに何か関係があるのなら、このまま黙ってるわけにはいかないと思っただけで…」
そのままパクリと、先ほど入れ損ねたパンを口に放り込む。
「仕事でミスというのはよく分からないが、人の価値は実質的な強さや美しさばかりではないだろう。それに、元の世界にはお前を必要とする人間もいるのではないか?」
騎士のいつになく優しい声に、急に胸が詰まった。
「本当は、元の世界に戻れるのなら戻りたい!元の世界にもいろいろ問題はあるけど、やっぱり自分が生まれ育った世界には両親も友達も…彼氏もいるし…」
そう口にしてしまったら、ここに来てから押し込めていた思いがとめどなく沸き上がってくる。
「会いたい…元の世界の人たちに本当は今すぐにでも会いたい!」
ナタリーの目に涙が急に溢れた。
そんなナタリーに、何とも言われぬ愛しさを覚えて、騎士は手を伸ばしそっとその頭を撫でた。
「戻れる道を探そう。こちらに来れたということはきっと帰る方法もあるはずだ」
その落ち着いた声に、ナタリーの気持ちも冷静になっていく。
そうか、来れたということは何か原因があるはず。
それが分かれば、戻ることも可能かもしれない。
「ところで、親と友達は分かるが、カレシとは…?未知の世界の話とはいろいろと興味深い」
ナタリーから手を離して、騎士が頬杖をついて聞いた。
「あぁ、えっと、結婚前にお付き合いしている男性のことを向こうではそう呼ぶの。ちなみに女性のことは彼女」
「婚約者ということか?」
「あー…、厳密に言うと婚約者とはまた別かな。まあ、付き合いが長くなればそのまま婚約したり、結婚したりすることももちろんあるけど…」
結婚する気なんて、向こうには更々なかったし。
「そうか…。それは早く戻らないといけないな。そのカレシとやらも、さぞかし心配しているだろう…」
真剣にそう言った騎士を前に、涙を拭ってからナタリーは口を開いた。
「それはどうだろう…?浮気ばっかりで、ちょうど10回目の別れ話をしたところだったし。私がいなくなって清々してるんじゃないかな?」
ナタリーが、寂しさの欠片も見せずにあっけらかんと言い放つ。
「…ナタリーもだが、お前もよほど男運には見離されているな」
そんなナタリーに、騎士が呆れ顔をして見せた。
明朝早く、宿を出て、一時間ばかし行くと小高い丘の上に差し掛かった。
「あと一日ほど走れば、南国へと続く街道へと出られる」
騎士から借りた赤いマントを頭から被ったまま、ナタリーは遠方を見つめた。
「やっと南国ね。でも私を南国へ送り届けたら、あなたはアバロンの城へと戻るんでしょ?」
「………」
「だったら、そのあとは自分で元の世界へ帰る方法を見つけなきゃだわ。まずは生活の基盤を作るところからね…職も見つけて、何か武器とかもあった方がいいかしら?…まるでRPGをしてるみたい…」
腕を組みながらぶつぶつと独り言を喋っていたナタリーの口を、騎士が後ろから手で塞いだ。
「しっ……」
「な、なにっ?!」
小声で聞くと、騎士が鬼気迫る顔で指示をする。
「微かに鎧の金属音が聞こえる。急いで馬から降りて、下がれ」
これは尋常ではないと、ナタリーは言われたまま白馬からするりと降りて、二、三歩後ろへと下がった。
騎士もそれに続いて、ひらりと静かに地面へと着地する。
しばらくすると、微かだった金属音が次第に大きくなり、近付いてくるのが分かった。
騎士はすぐさま、腰の鞘に手を掛けた。
そこに現れたのは、黒い馬に乗った二メートルはゆうにありそうな大男だった。
大男は騎士の前まで来ると、馬から荒々しく降りて仁王立ちになり、声を張った。
「お前が死神か?」
「そうだが?」
「罪人の女とは、そこの女で間違いないな」
「だったら、何だ?」
「我が将の命により、罪人の首を頂戴致す」
大男はそう言うと剣を抜き、ナタリーに向かって突進したのだった。
きゃっ!と咄嗟に目を覆ったナタリーの前で騎士の半笑いの声が響いた。
「…できればの話だがな」
そして、話は冒頭に戻るー