振り解いて、世界
高園いろ巴という女
まだ眠気の残った瞼をぐりぐりと擦り付ける。
それからパチリと目を見開いて、鏡の中の自分を覗き込んだ。
目の下には立派なクマができて酷い顔だ。
肌のカサつきも気になる。
ちゃんと眠れなかったんだから当たり前だけど、寝不足がもろに出る年齢になってきたという現実を突きつけられて朝から憂鬱な気分だ。
鏡に映った洗面所の白い壁には、華奢な金縁の丸時計がチクタクと小さな音を刻みながら7時を示している。
とうとう、セレンの家で初めての朝を迎えてしまった。
同居生活一日目。
今日からセレンとの生活が始まる。
セレンは最低1ヶ月なんて言ってたけど、一刻も早く元の生活に戻りたい。
タイミングを見計らってこっそり出ていくのもありだけど、セレンにはすぐにバレてしまいそうだ。
ここからは簡単に逃げられそうにない。
大きな溜め息をついて、リビングに向かう。
スタジオミュージシャンは昼夜逆転の生活になることも多く、朝から顔を合わさなくていいのは唯一の救いだ。
飲み物だけいただいて、ササッと仕事に行けば問題ない―――はずだった。
「おはよ」
朝の光が差し込む、50畳はありそうな縦長の広いリビングの奥。
クラシックな彫刻が施された三人掛けの猫脚ソファの背から、セレンはぴょこっと顔を出した。
「おはよ。こんなに早くから起きてるなんてめずらしいね。まだ寝てると思ってた」
「今日は朝から現場の仕事があるから起きてた。そこのテーブルに置いてあるご飯、食べていいよ」
目の前にあるマホガニーの重厚なテーブルの上には、こんがりと焼かれたクロワッサンや半熟オムレツ、ぷりぷりとしたソーセージや色とりどりのフルーツが置かれている。
どこかのホテルで食べるような朝食だ。
「これ……?」
「そう、それ」
「え、でも」
セレンはソファから立ち上がると、鼻歌を口ずさみながらダイニングテーブルの方に向かってのんびりと歩き始めた。
まだセットされていないふわふわの髪や、大きめの黒いカットソーがアンニュイな雰囲気を醸し出していて、なぜか様になっている。
セレンは手に持っていたシンプルなマグカップをテーブルに置くと、手のひらで向かい側の席を指し示した。
「遠慮しないで食べて。いろ巴のために作って貰ったから」
「ここの家政婦さんに? こんなに朝早くから悪いな。それにお金だってそんなに持ってないし……」
「いろ巴は余計なこと気にしなくてもいいよ」
「でも……」
「じゃあ、おれが食べさせてやるよ。隣に座る?」
「遠慮せずにいただきます!」
高級そうな花柄のファブリックのイスに慌てて腰を下ろす。
セレンは小さく笑いながら向かい側の席につくと、マグカップを口元に運んだ。
「なんかいい匂いするね。レモンみたいな」
「これかな、レモングラスティー。飲む?」
「ううん、朝はお茶でいいや。セレンは朝ご飯食べないの?」
「さっきフルーツ食べたよ」
「フルーツだけ? そんなんじゃすぐにお腹すかない?」
「いつもは昼過ぎに起きるから朝は食べない」
「ふぅん?」
噛み合っているのか噛み合っていないのか分からない会話をしながら、セレンに借りたスウェットの袖を捲る。
こうでもしないと長い袖に食べ物が付いて汚してしまいそうだ。
お皿の両隣に置かれたフォークとナイフを手に取ったところでふと顔を上げると、セレンと視線がぶつかり合う。
「あ、何かわたし変なことした?」
「ううん。その服、大きいんだなと思って」
「そうだよ、ぶかぶか! 着心地はいいんだけどね、あったかいし。今日の仕事が終わったら、荷物を取りに一旦帰ろうかな」
「何で? いいじゃん、それ着てたら」
「嫌だよ。いちいち動きにくいし。赤ちゃんにでもなった気分」
「すっぴんは赤ちゃんみたいだからよく似合ってるよ」
「うるさいな!」