振り解いて、世界
「ばか。くそ真面目」
「えっ悪口?」
信号が赤に変わる。
車が緩やかに停まったかと思えば、セレンはわたしの片頬を軽く抓って引っ張った。
「悪口じゃねぇよ。ただの感想」
「いひゃい、やめへよ」
「変な顔。いい気味」
「うるひゃい、はなひへ!」
セレンの手首を掴もうとした途端、するりと逃れるように離れていく。
わたしは空を切った手を太ももの上できゅっと握り、運転席を睨み付けた。
もう少しで掴めたのに。
行動を全部読まれている気がして、わたしは本気でむかついていた。
それなのに、目の前の男は意地悪な笑い声を上げて凄く楽しそうにしている。
ぷんすかと腹を立てるわたしを後目に、セレンは両手で軽くハンドルを握り直した後、ゆったりとした笑顔を向けてきた。
「怒ってんの?」
「怒ってんのって。わたしのこと、怒らせたいんでしょ」
「怒らせたいわけじゃないよ」
「じゃあ何なの」
「からかって悪かったよ。機嫌直して」
信号が青に変わり、車がまた走り出す。
子どもをあやすような口調にまた腹が立つ。
セレンは、わたしを何だと思っているんだろう。
何でこんなにわたしに構うんだろう。
この男の考えていることが本当に分からない。
ドライブだって、パッとしないわたしなんかと行くよりも、美人な女の人と一緒に行った方がずっと楽しいだろうに。
以前、セレンが女の人を乗せて車を走らせているところを何度か見かけたことがある。
どれも別々の女の人だったけど、全員揃いも揃って超絶美人だった。
きっとセレンは、目鼻立ちのはっきりした綺麗で色っぽい人が好きなんだと思う。
ちびで童顔な人を連れているところなんか見たことがない。
「そういえば、今までセレンと恋愛の話ってあんまりしたことがなかったなあ」
「そうだっけ。何か気になった?」
「うん。セレンって誰かと付き合ったことはあるの?」
「ないよ」
「ないんだ。何で付き合わないの?」
「面倒くさい。自分のペースを乱されたくないし」
「うわ、スケコマシだ」
「スケコマシ」
セレンはふっと顔を綻ばせた。
「わたしは高校生の時に付き合ったことがあるよ。だから、わたしの勝ちだね」
「何の勝負だよ」
「しかも半年くらい続いたんだから。ちょこちょこ遊びに行ったりして。付き合ってる彼氏とデートって楽しいんだよ」
「ふぅん」
セレンは素っ気ない返事をしたきり黙ってしまった。
ドヤ顔を盛大に決めたつもりが、それに対して何の反応も返ってこない。
車内に流れる静かなBGM。
窓の外を流れる景色が急激に輝きを失う。
表情のほとんどなくなった横顔を、わたしは様子を伺うようにじっと見つめた。
「ごめんね、興味なかった?」
「別に。興味ないわけじゃないよ」
「そう……ならいいけど。あの、セレンって今好きな人はいないの? 気になってる人とか」
「いるよ」
「いるの!?」
自分から聞いておきながら驚いた。
まさかセレンに好きな人がいたなんて。
わたしが助手席から身を乗り出すと、セレンに穏やかな表情が戻ってくる。
「そんなに意外?」
「意外だよ。そんな気配、全然感じなかったし。セレンっていつも遊んでるイメージだったから」
「そう見える? いるよ。大切にしたいと思うやつくらい」
「へぇ……そうなんだ。その人とは付き合いたいと思わないの?」
「思うよ」
前に見かけた女の人達の顔が、サーッと流れるように思い浮かぶ。
あの中にセレンの好きな人がいるのかもしれない―――そう思うと、胸がじめじめとして嫌な気分になった。
それがどうしてなのかは分からないけど、セレンが遠くに行ってしまった気がしてとにかく嫌だった。
わたしはすぐに窓の外に目をやって、通り過ぎていく真っ白な外灯を一つ、二つと数えた。
そうしたら、このわけのわからない気持ちが少しずつ消えて、胸の中がすっきりしそうだと思ったからだ。
―――変なの。
同居生活が始まってから、調子が狂って仕方がない。
早く元のわたしに戻らないと、もっとおかしくなってしまいそうだ。
焦りを覚え始めたわたしの目の前を、また一つ外灯が通り過ぎていった。