振り解いて、世界



 繁華街の中心にある、古びたビルの地下。
 馴染みの小さなライブハウスのドアを開け、人込みとタバコの煙を押し分けて進む。

 学生時代からこのライブハウスを練習スペースとして使わせて貰っていて、マスターには日頃からよくお世話になっている。
 今日は〈セッションライブ〉といって、好きな曲の譜面を持ち寄り、初対面の人と一緒に演奏するイベントがある日だ。

 初心者向けのセッションライブの日は、学生や仕事帰りに立ち寄る人が多く、わいわいお酒を飲みながら音楽仲間と一緒に楽しく演奏できる。
 今日みたいな上級者向けの日だと、音楽プロデューサーやテレビで見かけるプロのアーティストが常連客の中に紛れ込んでいて、演奏を気に入られるとその場で仕事を貰えたり、運が良ければスカウトされCDデビューの道が開けたりする。

 さっきすれ違った人は、最近ヒットチャートを賑わせている人気バンドのメンバーの一人だったような。
 何せ店内は人が溢れ返っているし、薄暗いのもあってここにいる全員の顔がよく見えない。

 一般客だけでなく、売れっ子アーティストや音楽プロデューサーなども絶えず遊びに来るのは、マスターの顔の広さと人柄の良さのおかげだと思う。

 そんなマスターが切り盛りするこのライブハウスは、音楽をやっていたら誰でも知っている有名な演奏の場だ。
 特にプロ、アマチュア、人気の程度なんかは関係なく、実力のみが問われる上級者向けのセッションライブの日は、いつもよりもたくさんの人達が集まる。

 人込みを掻き分けて、やっとの思いでステージ近くのバーカウンターまで来ると、そこに黒のパーカー姿の男が座っていた。
 ゆるく波打つ艶々の黒髪、目尻が爽やかな切れ長の瞳、スッと通った鼻筋に形のいい薄めの唇。
 清潔感とミステリアスな雰囲気を醸し出す中性的な顔立ちのその男は、バーカウンターの天井に吊るされたスポットライトの光の下で、涼し気にロックグラスに口を付けている。
 こちらは汗だくになって必死でここまで来たのに、むかつくことこの上ない。

「セレン! やっぱりここにいた!」

 せわしく詰め寄りながら、いらいらとしたガサツな声で叫ぶ。
 なのに、こちらに振り向いたセレンはえらく飄々としていた。

「お、いろ巴じゃん」
「お、いろ巴じゃん……じゃないわ!」

 背中の方から「セレンさんにあんな口調で話かけて大丈夫か」「やばいあの人、命知らずなの」とか口々に聞こえてくる。
 セレンは音楽業界では一目置かれた存在だ。
 それがなんだ。わたしは構わず目の前の男を睨みつけた。

「今日は家で寝てるんじゃなかったっけ? 来んなら教えろよ」
「さんっざん電話したのに出てよ! ゆっくりするつもりだったのに、セレンのせいで全然できなかったんだからね」

 セレンはゆるいシルエットのカーゴパンツのポケットからスマホを取り出すと、珍しく申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「おれのせいって?」
「そうだよ。さっきセレンと婚約したっていう女の人が家の前まで来たの!」








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