振り解いて、世界
本当のきもち
朝の光が乱反射する繁華街のビル群。
行き交う人の波間に大きく横たわるスクランブル交差点の信号が赤に変わった。
横断歩道の前に自然にできた行列の先頭で立ち止まったわたしは、まだまだ信号が青にならないことを確認してから、ショルダーバッグに入れたスマホを取り出した。
真っ暗な画面には、わたしの情けない顔が映っている。
スマホの電源は一昨日、セレンの家を出て行ってからオフにしたきりだ。
『やっぱり自分の家が落ち着くから帰るね』とラインはしておいた。
それでも突然わたしがいなくなって、びっくりしたかもしれない。
けれど、セレンからの返事を見るのは心の準備が必要だった。
わたしに戻る気がないと分かったら、セレンはあっさりと受け入れるだろうから。
「あれって桝田彩世とニュースになってた人じゃない?」
見知った人の名前が背後から聞こえて胸がざわつく。
スマホをバッグの底に押し込み、横断歩道の向こう側にあるビルを見上げると、広告用の大型ディスプレイにベースを弾くセレンの姿が映し出されていた。
レンガ造りの壁に、レトロなペンダントライトがいくつか吊るされたアットホームな雰囲気が漂う部屋で、アコースティックギターやトイピアノ、カホンなどの演奏メンバーが輪になってスツールに座っている。
その輪に混じって、セレンは黒いパーカーにグレーのイージーパンツといったラフな格好で、アコースティックベースを手に珍しくうっすらと微笑んでいた。
朝の時間帯にぴったりな、爽やかなゴスペル調の曲を情熱的に歌い上げる男性アーティストも、活き活きと楽しそうにしている。
彼は人気急上昇中のSOULシンガーで、今週のオリコンヒットチャートにも何曲かランクインさせていたはずだ。
隣同士の二人が目を合わせると、お互いに気の許した表情を浮かべた。
「顔が整いすぎてめっちゃかっこいいんだけど! 色気がやばくない?」
「分かる。漫画とかに出てきそうなくらい綺麗なのに、なんか落ち着いてて男っぽいよね。桝田彩世が羨ましい〜」
「あのニュースってほんとなのかな」
「ほんとなんじゃない? いいなぁ、どこで出会えたんだろう」
長い脚を組んだセレンがもう一度画面にちらりと映ると、後ろの女の子達から溜め息が漏れた。
少し前なら、「交差点で流れてたアレいつ撮ったの?」なんて気軽に聞けていたのに、もうそんなことも出来そうにない。
今まで当たり前だったことが、こうして一つずつ消えていく。
そしていずれは、わたし達の間には何もなくなってしまうんだろう。
逆立ちしても届かないくらい、遠い場所にセレンがいるのを改めて痛感する。
どうしたって元の場所には戻れない。
自分からセレンの家を出て行ったのに、今すぐにでも帰りたい思いに駆られた。
ガン、と肩に何かがぶつかり、周りを見るとたくさんの人達が歩き出している。
いつの間にか信号は青に変わっていた。
わたしも早く歩き出さないといけないのに、足が重くてどうしても動かせない。
代わりに、鼻の奥がツンと痛む。
わたしも街頭の大きなディスプレイに映れるほど人気のあるピアニストになれていたら、セレンへの気持ちを諦めずにすんだんだろうか。
高校生の時にバンドデビューを果たして、プロとして活躍していたら今とは違う未来があったかもしれない。
でもいくらそう思っても、どうすることもできないところまで来てしまっている。
今になって、自分の選んだ道にとてつもなく大きくて高い壁があるのに気が付いた。
こんなの、どうしたって乗り越えられない。
一人じゃ無理だ。
わたしにはセレンがいないとだめなのに。
子どもみたいに泣きじゃくりたい気持ちをぐっと堪えて、重い足を前に出す。
どうやって歩いているのか分からないくらい、わたしは心の中でたくさん泣いた。