振り解いて、世界
くりのき幼稚園のクリーム色の園舎が見えてきたところで、大きく深呼吸をした。
暗い顔で子ども達に会うわけにはいかない。
両手で頬を何度か軽く叩いてから拳を握り、「よし」と気合を入れる。
古びた重い鉄の門を開けると、園庭で遊んでいた子ども達がワッと一斉に駆け寄ってきた。
「せんせ〜!」
「まってたよ、はやくおうたうたお!」
「きょうはなんのおうた?」
子ども達がありったけの力を込めて、お腹の辺りにまとわりつくように抱きついてくる。
ぎゅうぎゅうと圧迫されて押し潰されてしまいそうだ。
さっきまでの暗い気分はどこへやら、思わず吹き出しそうになりながら、小さな頭や柔らかい頬を順番に撫でていく。
「ちょっと。待って待って」
「つかまえた〜!」
ぷにぷにとした小さい手がわたしの手首を力いっぱい握ったようだけど、大勢の子ども達の中に埋もれてどうなっているのかまったく見えない。
そのまま子ども達に揉みくちゃにされながらぐいぐいと力強く引っ張られて、あっという間にいつもの保育室まで連れて来られた。
「先生、まだカバンも置いてないしコートも脱いでないから……」
「ねぇねぇ、せんせいのおうたれんしゅうしたよ! きいてきいて」
年少組の女の子が、保育室の窓際に置かれた傷だらけのアップライトピアノの前に立つ。
わたしはひっきりなしに抱きついてくる子ども達を何とか落ち着かせ、丸い肩と二つ結びのくるんとした毛先が楽しそうに上下に揺れるのをすぐ後ろから眺めた。
指だこ一つない綺麗な手がたどたどしく鍵盤を叩き始める。
「おかーをこえーゆこーよ、くちーぶえーふきつーつー」
女の子が、あどけない声でメロディを口ずさむ。
わたしがいつもこの幼稚園で弾く曲だ。
所々で止まりながらも正確に流れるメロディは、女の子が次の音を想像しながら弾いているのがよく分かった。
たくさん練習したんだろう。
女の子はメロディを弾き終わると、元気よく振り返った。
「ね、じょうずにひけたでしょ?」
「ほんとに上手。たくさん練習したの?」
「そう、せんせいとひきたくておかあさんにおしえてもらったの。せんせいもいっしょにひこう!」
女の子がベンチタイプのピアノイスをぽんぽんと叩く。
陽の光できらきらと光る無垢な瞳は、雨上がりの虹みたいな曲線を描いてすぐに見えなくなった。
「せんせい、ひいて〜!」
「ぼくもはやくうたいたい!」
「わたしも〜!」
あちこちから子ども達の声が聞こえてくる。
わたしは目頭が熱くなるのを堪えながら、何度も頷いた。
子ども達の前で涙は見せたくなかった。
素早くコートを脱いでショルダーバッグを脇に置く。
ピアノイスにサッと腰を下ろすと、譜面台についた細かな傷がふと目に入った。
―――いつもはあんまり気にしたことがなかったけど、こんな所にまでたくさん傷が入っていたんだ。
このピアノが、どんな時でも子ども達の心を明るく照らしてきたんだと思うと無性に愛おしくなる。
わたしは手のひらで、そっと傷を撫でた。
ここには大きなステージもない。
輝くスポットライトもない。
いい音響設備もないし、演奏が終わった後の盛大な拍手もない。
けれど、ここにはわたしの演奏を聴きたいと願ってくれる子ども達がいる。
バンドデビューをしていたら違う未来があったのかもしれないけど、わたしはやっぱり胸の奥が温かくなるこの場所が好きだ。
どれだけテレビで活躍できたとしても、こんな場所をずっと探し続けていたと思う。
こうしていれば良かったとか、しなければ良かったとか、そうやって迷うのはわたしが失敗を恐れているからだ。
本当は何が正しいのか、誰にも分からない。
だからこそ、子ども達の気持ちにはこの場で全力で答えていきたい。
わたしの音楽を求めてくれる気持ちとこのピアノの前では、どこまでも誠実でありたかった。
「さぁ、今日もたくさん歌おうね!」
ピアノの鍵盤に置いた手に心を込める。
迷うなら立ち止まって、周りに目を向けて、わたしがどんな人達に囲まれているのか見てみるのもいいかもしれない。
そうして演奏が終わったら、セレンからの返事をちゃんと受け止められる気がした。