振り解いて、世界


 〈大ヶ谷(おおがや) (しゅん)〉と大きく表示された文字に、「え」と小さな声が漏れる。
 2日前、セレンの家にいた時に大ヶ谷さんからセッションに誘われて断ったばかりだ。
 今日は何の用事だろうと頭にクエスチョンマークを浮かべながら赤い応答ボタンをタップする。

『あ、いろ巴ちゃん。急に電話してごめんね、びっくりしちゃった?』

 スピーカーから聞こえてくる朗らかな声から、大ヶ谷さんが電話の向こうで明るい表情をしているのが分かった。
 この間のセッションで感じた大ヶ谷さんの優しそうな雰囲気を思い出して、少しだけ緊張が解れる。

「いえ、お電話ありがとうございます。セッションに誘って貰ったのに断ってしまってすみません」
『そんなの気にしないでよ、また行こう。それよりさ、僕の知り合いにいろ巴ちゃんのことを知ってる人がいて。その人が今度、子ども向けの音楽会を開くみたいなんだけど、いろ巴ちゃんにもぜひ出演して欲しいって言っててさ。どうかな、興味ある?』

 仕事の話だ。
 いつもなら二つ返事で引き受けているような案件だけど、今はそんな気になれなかった。

「ちょっと考えてもいいですか? 日にちはいつ頃なのか決まっていたら教えていただけるとありがたいんですが」
『その辺の詳しい話は一緒に飲みながらしない?』
「飲みながらですか?」
『うん、だめかな?』
「そうですね……すみません。まだ出演できるか分からないので」
『発表会はそんなおカタイ感じじゃないよ。気軽に考えてくれて大丈夫だから。その人も音楽業界でがっつり活躍してる人だから、いろ巴ちゃんにとっていいコネクションになると思うよ』
「でも」
『実は、その人も今日予定が空いてるみたいだから三人で飲めたらいいなって思ってさ』
「今日ですか……」

 わたしはおでこの辺りに靄がかかっていくのを感じながら、地面に頼りなく伸ばした足を見つめた。
 きっとここにセレンがいたら、また「あいつのところには行かないで」と引き止めてくれていただろう。
 でもここにはセレンはいない。
 だからこそ、この場は自分で決めなくちゃいけないのに、あの時に抱いた嬉しさが心の奥深くに残っていて、セレンに言われた通りに断ってしまいたい気持ちでいっぱいだった。
 今のままじゃ、一歩も前に進めないと分かっているのにどうすればいいのか分からない。
 誘いに乗るべきか、乗らないべきか―――なかなか返事ができずに黙っているわたしを見兼ねたのか、大ヶ谷さんは語りかけるような口調で話し始めた。

『いろ巴ちゃんが来てくれたら、子ども達も喜ぶと思うよ。子どもの笑顔って本当に癒されるよね。僕、子どもにはずっとああやって楽しい気持ちで過ごして欲しいと思うんだよね』
「あ……」
『え?』
「いえ、何でもありません」

 さっきまで一緒に遊んでいた幼稚園の子ども達の顔が、脳裏に鮮明に浮かぶ。
 屈託のない笑顔で楽しそうに歌ったり踊ったりする様子は、幸せ以外の何ものでもなかった。
 わたしの演奏が少しでも子ども達の役に立つのなら、今すぐにでもとんでいきたいという思いが、ふつふつと込み上げてくる。
 わたしが、わたしらしくいられるのは子ども達がいてくれるからだ。
 
―――わたしらしい音楽がしたい。
 望みはたったこれだけだ。
 輝きを失いかけていた心に、小さな灯りがともる。

「わたしも子ども達には楽しい時間を過ごして欲しいと思っています。ぜひ、お話を聞かせていただけませんか?」
『良かった! じゃあ、今からいける?』
「どこに行ったらいいですか?」
『今から来て欲しいお店のURL送るね。そのお店で直接待ち合わせってことで』
「分かりました」

 わたしは誰もいない空間に向かって勢いよく何度も頷いた。
 セレンがいなくても大丈夫だ。
 これからは、何でも一人で決めないといけないんだからしっかりしなくちゃ。
 ちりちりとした痛みにも似た胸のざわつきを抑えて、わたしはブランコから立ち上がった。
 
 
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