振り解いて、世界
ショルダーバッグから、スマホのバイブ音が鳴る。
バッグの奥に手を突っ込み裏返ったスマホをひっくり返すと、そこにははっきりと大きく〈セレン〉の文字が浮かんでいた。
どうして、このタイミングで。
押し込んだはずの罪悪感が、またじわじわと胸に広がっていく。
「出ないの?」
顔を上げると、大ヶ谷さんは着信画面からわたしの方に視線を移したところだった。
わたしは無言で首を振った。
「どうして? けんかでもしたの?」
「いえ……そういうわけじゃないんですけど」
「そうなんだ。僕が聞けることじゃないのかもしれないけど、何かあったのかなと思って気になっちゃってさ。だって、あんなに仲が良かったから」
プツリと着信が途切れ、罪悪感と一緒にスマホをバッグの中に押し込む。
大ヶ谷さんは艶のある茶色の前髪を掻き上げると、バーカウンターにもたれかかるように両肘を置いた。
「セレンくんってさ、いろ巴ちゃんといる時だけいつもと全然違うよね」
「そうですか?」
「やっぱり気になるよね。セレンくんのことは」
「いえ、あの……」
「僕の前では正直に話せばいいよ。昔からセレンくんを知ってるけど、あんなに気の許した態度をとるところは他で見たことがなかったからさ。いろ巴ちゃんの存在って、セレンくんにとっては貴重だと思うんだよね」
どう答えていいのか分からず、バーカウンターに置いたおしぼりの端を指先でちょこっとつまみながら大ヶ谷さんの様子を伺う。
そんなわたしに気が付いていないのか、大ヶ谷さんはあっさりとした喋り方で話を続けた。
「まあでも、セレンくんってちょっと変わってるからいろ巴ちゃんが不安になるのも分かるよ」
「不安……」
「変わってるっていうか、感情を表に出さないというか。でもいろ巴ちゃんの前ではよく笑うし、楽しそうにしてるなと思うよ僕は。それに、セレンくんっていろ巴ちゃんと一緒にいる時は、女の子と全然喋らないのも特別感があると思わない?」
「え、わたしがいない時は違うんですか?」
「そうだね。テレビの収録で一緒になったアイドルの子達とか、セッションを見に来る女の子達とか。いろ巴ちゃんがいない時はわりと普通に喋ってるよ。セレンくんから話しかけることはないみたいだけど」
「そうなんですか!?」
「分かりやすいよね、いろ巴ちゃんって」
「……よく言われます」
大ヶ谷さんから目を逸らすと、わたしの前にカクテルが置かれていたことに気が付いた。
丸いカクテルグラスの中で、はちみつ色と爽やかな赤色が二層になっている。
上に乗ったクラッシュアイスが、ダイヤモンドみたいにちらちらと光っていてとても綺麗だ。
「ある意味、分かりやすいのはセレンくんも同じだよね」
「分かりやすいですか? セレンが」
「そうだね。例えば、セレンくんが誰を好きかとか」
「え……」
大ヶ谷さんに視線を戻すと、可愛らしい口元にニヤリとした含みのある笑みが浮かぶ。
もしかすると、大ヶ谷さんは何かを知っているのかもしれない。
長く音楽業界にいる人だ。
わたしの知らないセレンの話をたくさん知っていたとしても、何ら不思議じゃない。
でもどうして、わたしにこんな話題を持ちかけるんだろうか。
考え始めると、これ以上どうやって会話を続けていいのか分からなくなった。
「やめとこうか、この話は」
「そうですね。できれば」
セレンの好きな人の話なんかしたくない。
何度もかかってくる電話のことも、セレンのいない毎日がこれからずっと続くことも今は全部忘れたかった。
「とりあえず乾杯しよっか。今日は僕の奢りだから何も気にせず好きなだけ飲んでよ」
「ありがとうございます。あれ? そういえば、もう一人の方はどうされてるんですか?」
「ちょっと遅れるって。僕達だけで先に始めよう」
「分かりました」
大ヶ谷さんのシャンパングラスと、わたしの手の中にあるカクテルグラスを軽く打ち付け合う。
グラスがカチンと小さな音を立てたあと、わたしは嫌な現実から逃れるようにしてお酒を喉の奥に流し込んだ。