振り解いて、世界


 お店の外に出ると、冬のつんとした冷たい空気が頬を刺して、濁っていた視界が少しずつ晴れていく。
 冴えてきた感覚を引き戻すように、わたしの肩に回った大ヶ谷さんの腕に力が込められた。
 人通りの少ない真っ暗な狭い路地裏で二人きりなんて、それだけでも嫌な予感がするのに、身体同士が密着していたら不快以外の何ものでもない。
 手のひらで大ヶ谷さんの胸を押し退けて離れようとしたけど、さらに強い力で無理やり抱き寄せられた。

「は、離してください……」
「離せないよ。だって一人で歩けないでしょ? 僕が支えてあげるから」
「本当に大丈夫なので。大ヶ谷さんは先に帰って……。あ、ちょっと待ってください。もう一人の方は……?」
「誰も来ないよ」

 ひんやりとした棘のある声だった。
 それまでの大ヶ谷さんとはガラリと雰囲気が変わった気がして、わたしは驚くまま顔を上げた。

「今日は誰も来ない。仕事の話は嘘なんだ。いろ巴ちゃんって音楽一筋って感じだから、こうでもしないと呼び出せないと思ってさ。ごめんね」

 大ヶ谷さんは悪びれた様子もなく、楽しげに笑っている。
 
「何のためにそんな嘘をついたんですか……」
「セレンくんが昔から気に入らないんだよ。ちょっと顔がいいってだけで皆から注目されてさ。無愛想で偉そうで、僕のことなんか眼中にないって感じで凄くむかつくんだよね」
「そんなの、直接本人に言ったらどうですか?」
「君もむかつくタイプだよね。売れてないくせに偉そうなこと言わないでくれる?」
「売れてたら性格が悪くても許されるんですか?」
「うるさいな」

 ぎりっと肩を掴まれ、痛みが走る。
 でもここで引っ込むのは悔しくて、わたしは負けじと大ヶ谷さんを睨みつけた。

「ふぅん。見かけによらず、結構気が強い方なんだね。ちょっとは楽しめそうだな」
「どういう意味ですか?」
「今からホテルに行くんだよ。ここから近いから、このまま歩いて行こう」
「は!? 待ってください……!」

 わたしは満足に力の入らない手で、大ヶ谷さんの腰の辺りをコートごと握って引っ張った。
 けれどその手も一緒に抱き抱えられ、引きずられるようにして強引に歩かされる。

「何を慌ててんの? どうせあいつとヤりまくってんでしょ。いろ巴ちゃんが近くにいて、セレンくんが手を出さないわけがないもんね」
「セレンはそんな人じゃありません!」

 カッと頭に血が上り、大ヶ谷さんの腕を振り払おうとしたけどびくともしなかった。
 むかついて仕方がないけど、酔ってまともに抵抗ができない上に男の人に力で抑え込まれると勝ち目がない。
 
「まさか何もしてないの? 凄く燃えてきたよ。あいつが唯一、執着してる女の子が僕のものになったらどんな顔するんだろうなあ」
「さっきから何言ってるんですか? 離してください!」
「嫌だよ。話を聞いてなかったの? 気が強くてバカなタイプなのかな。前から、頭がお花畑なんだろうなとは思ってたけど」
「放っといてください」
「だってタダで子どもの前で演奏してるんでしょ。バカじゃん、お金も取らないで」
「大ヶ谷さんには関係ないことです」
「そうだよ。何の得にもならない関係なんか、こっちから願い下げだよ。一つも役に立たない子どもの前で演奏なんかして何になんの」
「説明したところで、大ヶ谷さんには分からないと思います」
「そうだね、バカが考えることは分かんないよ」

 大ヶ谷さんは、吐き捨てるようにそう言うとわたしを睨んだ。
 夜の闇に溶け込んだ仄暗い視線を浴びていると、目を輝かせながら歌う子ども達の顔がぼんやりと重なる。
 わたしは変わりたかった。
 高校生だった、あの頃の自分から。
 歌が大好きな彼女を傷付けてしまったわたし自身から、どうにかして抜け出したかった。
 でも、どうすればいいのか何も方法が思いつかなかった。
 わたしは頭も良くないし、お金もないし、世の中も知らない。
 やっぱり、わたしには音楽しか残っていなかった。
 誰かの役に立てるほどの才能なんかないけど、それでも音楽にしがみつくしかなかった。

 わたしのやっていることは、他人から見たらくだらないことなのかもしれない。
 いくらやっても無駄なことだと思われるのかもしれない。
 けれど、わたしの音楽を聴きたいと思う人達の元へ駆けつけて、一人ひとりの心に寄り添うことで何かが変わればいいといつも思っていた。
 
「そんな辛気臭い顔しないでくれる? 言っとくけど何してもやめないからね。いつも一緒にいたあいつとも連絡取ってないんでしょ? こんな機会逃すわけにはいかないよ」

 セレンはそんなわたしをばかにしなかった。
 むしろ、ずっと応援してくれていた。
 それなのに、誰よりもそばにいてくれたセレンの気持ちにまったく寄り添おうとしてこなかった。
 セレンとまともに話そうとせず、勝手に家を飛び出して、電話だってずっと無視し続けて。
 二人のためだと理由を付けて、セレンを傷付けることで自分が傷付かないように身を守っている。
 わたしは、デビューする彼女を責め立てたあの頃から何も変わっていなかった。
 何一つ、これっぽっちも変わっていなかった。

 大ヶ谷さんの勢いに呑まれて、路地裏を出る。
 昼間とは打って変わって人気のなくなった商店街を背に、道路の向こうで一際明るく光るホテルがやたらと眩しく見えた。
 強い力で肩を抱かれたまま、目の奥からウッと熱いものが込み上げてくるのを黙って飲み込む。
 いつも優しく守ってくれていたセレンを、大切にしなかったわたしがだめだった。
 今日だって、大ヶ谷さんの所には行くなと引き止めてくれていたのに聞かなかったのがいけなかった。
 もしもまた話せるのなら、その時はちゃんと謝ろう。
 例え許してくれなくても、一生懸命謝ってわたしの気持ちを包み隠さず全部伝えよう。
 
「泣いてんの?」
「泣いてません、離してください!」

 大ヶ谷さんがわたしの顔を覗き込む。
 ありったけの力を込めて、近付いてきた顔を押し返そうとした時だった。
 
「いろ巴……?」

 聞きたくて仕方がなかった声が耳に届いた気がして、わたしは勢いよく振り返った。



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