振り解いて、世界


 セレンの潤んだ瞳が、唇から紡がれる言葉が、全身を包み込む穏やかな温もりが、わたしの心をすべて掻っ攫っていった気がした。
 疑う余地なんかない。
 確かにセレンはわたしを想ってくれている。
 セレンは、わたしを―――。

「あ、鼻血」
「へ?」
「鼻血が出てる」
 
 セレンに言われて、鼻の奥からサラサラとした生温い液体が流れ出ていたことに気が付く。
 それが何なのかイマイチよく分からないまま俯くと、履き慣れたお気に入りのジーンズに小さな赤黒いシミがいくつか散らばっていた。
 
「うわぁ、いつの間に! なんでこんな時に出てくるかな」

 わたしはセレンの手を解いて、ローテーブルに置いてあったティッシュを素早く抜き取った。
 慌てて鼻を押さえている間に、セレンは太もも辺りについた血液の跡をティッシュでトントンと叩きながら拭ってくれている。
 
「まあ、あれかな」
「あれって何」

 セレンは、きょとんと首を傾げた。

「欲求不満?」
「ばか違うわ! あり得ないくらい近くで、ドキドキすることばっかり言われたらどうしていいか分かんなくなって、そしたらツーッて」
「ふぅん。興奮したんなら、やっぱ欲求ふま……」
「黙って! 今すぐ黙って!」

 セレンが楽しそうにくすくすと小さく笑っている。
 わたしはティッシュで隠れた唇を、きゅっと尖らせた。

「今、絶対あたしのことばかだなって思ってる」
「思ってないよ。いいじゃん、いろ巴らしくて」
「良くないよ。大事な場面なのに」
「そう思ってくれるだけで、おれは嬉しいよ」

 セレンはティッシュをごみ箱に投げ捨てて、ソファに深く座り直した。
 ソファの背に頭を倒し、鼻をつまむわたしを見ながらゆったりと満足そうに―――色っぽい笑みを浮かべている。

「な、何よ」
「いろ巴がさっき、ロサンゼルスに行くのは寂しいって言ってたなと思って」
「そうだよ、悪い?」
「全然。おれが誰かと結婚すんのも嫌だった?」
「嫌に決まってるじゃん。セレン、何も教えてくれないから、結婚するんだって思い込んじゃったし。ロサンゼルスのことだって、教えてくれたら良かったのにって思ったよ」
「それはごめん。おれがロサンゼルスに行くって言ったら、いろ巴との関係が何か変わりそうで言えなかった。余計な心配をかけたくなかったんだよ。自分の気持ちとロサンゼルスに行くことを伝えるのは同じタイミングだと思ってたから」

 セレンはソファに片手をついて、二人の間にできた隙間を埋めるようにぐっと身体を寄せてきた。
 わたしの鼻を覆っていたティッシュを雑にはぎ取り、下から覗き込むように顔を見つめてくる。

「あ」
「もう止まってる」

 セレンからの視線がやたらとくすぐったい。
 そして、たまらなく恥ずかしい。

「そろそろ、いろ巴の気持ちが聞きたいんだけど」
「いや、あの……言うタイミング失っちゃって」
「今は?」
「今!? 無理だよ、恥ずかしいから絶対無理」
「じゃあ、この後で聞かせて」
「こ、この後って……今から何するの?」

 セレンから離れようとした途端、背中に腕が回って強引に抱き寄せられた。
 抵抗することもできないまま、完璧に整った顔がさらに近付いてきたかと思うと、わたしの鼻先にセレンの鼻先がツンと軽く押し当てられる。
 瞳をじっと見つめられ、吐息がかかりそうな距離でセレンはそっと低く囁いた。

「次はこっちにするよ」

 気がつけば頬を撫でていた親指が、ゆっくりと下に降りてきて唇をなぞっていく。

「それってもしかして……キ、キ、キス? 今からキスするつもり?」
「そうだけど」
「やだ、恥ずかしいよ! もう顔が熱いもん、また鼻血が……」
「出しとけば」
「そんなのだめ、我慢できないよ。きっと次はいっぱい出ちゃう。セレンにかかっちゃうかも」
「何それわざと? 際どいな。違う意味に聞こえる」
「は? 意味が分かんない。何言ってんのよ、ばかばか離して」

 セレンの胸を両手で叩く。
 でも、すぐに両手ごと強く抱きしめられて身動きができなくなった。

「もう黙って。顔上げて」

 ここからは、どうやっても逃げられそうにない。
 恥ずかしさのあまり暴れ出しそうになる気持ちをぐっと堪えて顔を上げる。
 目を合わせる余裕なんか微塵もないから、視線は落としたままだ。
 男の人に少しでも慣れていたら、こうやって恥ずかしがったり余計な抵抗なんかしなくてもすむんだろう。
 わたしはとことん可愛げのない性格だと思う。
 けれど、これが今の精一杯だから仕方がない。
 
「照れてんの?」
「照れてない」
「うん、可愛いよ。目、閉じて」
「か、かわ!? 可愛い!?」
「めちゃくちゃ可愛い。ほら、目は?」

 言われるがまま、目を閉じる。
 ドクドクと胸を激しく叩く音がうるさいくらい聞こえきて、また恥ずかしさが増した。

「好きだよ」

 胸の音に紛れて、耳に甘く響く優しい声。
 わたしはやっぱり、この声が好きだ。
 好きで、好きで、どうしようもないくらい大好きだ。

 
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