振り解いて、世界


 唇に柔らかいものが触れる。
 これがセレンの唇だと理解するのにそう時間はかからなかった。
 ふわりと優しく重なって、離れていく。
 
―――わたし、セレンとキスしたんだ。

 恥ずかしくて、でもそれ以上に嬉しくて自然と息が浅くなる。
 今キスしたばかりのわたしの唇は、初めての刺激でじんじんと熱い。
 まさか、ファーストキスの相手がセレンになるなんて夢にも思わなかった。
 頬が緩みそうになったけど、からかわれるのは嫌だからどうにか我慢して引き締める。
 わたしだけが舞い上がって、セレンはどう思っているんだろう。
 視界を覆う暗闇の向こうからは、物音一つ聞こえない。
 気になって瞼を開けようとした途端、またすぐに呼吸を塞がれた。

 さっきよりも唇が深く入り込んできて、思わず「ふ」と息が漏れる。
 潤んだ熱が、波のように引いては押し返した。
 しっとりとした温かい粘膜が繰り返し擦れ合うと、身体中がとろとろに溶けてしまいそうになる。
 セレンの好きな人は他でもない、わたしだ―――そう実感させられているみたいで、心の奥深くがあっという間に満ち溢れていく。
 満たされたその場所に、今まで何もなかったことさえ気が付かなかったのに。
  
 好き。
 大好き。
 セレンへの想いが、もの凄い速さで全身を駆け巡った。
 わたしがわたしで良かったなんて思えてしまうくらい、セレンが好きで仕方がない自分がいる。
 誰かを傷つけたこともあった。
 間違ったことをして後悔をした時もあった。
 けれど、セレンがいればちゃんと歩んでいける。
 つまずいてもそこから学んで、何度でも立ち上がれる。
 セレンじゃないとだめだ。
 わたしにはセレンしかいない。
 深く繋がっていた唇が少しずつ離れていく。
 追いかけるようにして瞼を開くと、滑らかな光を帯びた漆黒の瞳が、わたしをじっくりと見下ろしていた。

「いろ巴」

 掠れた声で名前を呼ばれ、手をぎゅっと熱く握られる。
 その手を、セレンは自らの胸に導いた。
 どういう意図があるのか理解できないまま、硬い胸板に手のひらを広げると、波打つように胸を叩く鼓動がわたしの身体にしっかりと伝わってくる。

「分かる? ばかみたいにドキドキしてる。いろ巴にだけだよ、こんな気持ちで触れたくなるのは」

 セレンは壊れ物を扱うような手つきで、わたしの手の甲を唇まで寄せるとゆっくりとキスを落とした。

「いろ巴しか見えないんだ。幸せにするよ、約束する。だから、おれを受け入れて。おれだけに触れて欲しい」

 もう抵抗するなんて無理だった。
 何も包み隠さず、これだけ真摯に気持ちを打ち明けられて、首を振る女の人なんているんだろうか。
 答えは否だ。
 わたしはセレンの手を包み込むように握り返した。
 セレンの目が僅かに見開く。

「わたしはもう幸せだよ。だって、セレンがいなかったら今のわたしはいないもん。セレンがいてくれるから、何でもできる気がするの。強くなれるし、優しくなれる。一緒にいたら、大変なことが起きたとしても大丈夫って思えるんだよ。少しだけど離れてみて分かったの、わたしにとって一番大切な人はセレンしかいない。大好きだよ。今までも、これからも」

 言い終わったと同時に勢いよく抱きしめられ、セレンの胸の中で笑みがこぼれる。
 思いきってわたしもセレンの背中に手を伸ばすと、抱きしめる力がさらに強くなった。
 初めて触れられた、セレンの温もり。
 いつ手を伸ばしても届かなかったそれが、今はわたしの腕の中にいる。

「やっと、つかまえた」
「やっとつかまえた!」

 二人で同時に呟いて、微笑み合う。
 セレンも同じことを考えていたなんて、何だかおかしい。
 照れ隠しに笑いながら俯いたわたしの髪を、セレンがさらりと掻き撫でる。
 穏やかな手つきが心地良くて目を閉じると、そのまま頭の後ろを包み込まれて引き寄せられた。
 少し強引に唇が重なる。
 角度を変えて、何度も何度も落ちてくるキス。
 なんて幸せで、心地いいんだろう。
 このままずっとこうしていたい。
 もっと近くに感じたい。
 セレンの背中に伸ばした腕に力を込めた。

 唇が離れ、わたしの首元にセレンの頭が埋まる。
 熱い吐息がかかって力が抜けた瞬間、ソファにそっと組み敷かれた。

「セレ……?」

 驚きながら視線を上げると、すぐ目の前には見惚れてしまうくらい綺麗に整ったセレンの顔があった。
 それから、緩いウェーブのかかった艷やかな黒髪の間から覗く、穏やかな漆黒の瞳。
 でもその瞳からはいつもの静けさが消え、代わりに渇いた光沢を携えてわたしを見下ろしている。
 身動きが取れないのはこの瞳のせいなのか、今の体勢のせいなのかどっちなんだろう。
 熱くなってぼぅっとしてくる頭を軽く振り、ちらりと視線をそらすと、わたしに覆いかぶさるセレンの身体が視界に飛び込んできた。

 「ちょっと待って」というわたしの声は、セレンの口内にあっけなく呑み込まれていく。
 訳が分からない。
 夢中でキスに答えていると、唇を割って熱い何かが入ってくる。
 口内をくまなく舐められたところで、これがセレンの舌だと気が付いた。
 恥ずかしくて力の入った舌を、ゆるゆると絡め取られる。
 強引なのに優しいキスを繰り返されて、頭がおかしくなりそうだ。
 酔いもほとんど覚めているはずなのに、全身がピリピリとしびれて、経験したことのない変な感覚が身体を支配している。
 もしかすると、わたしはすでにおかしくなってしまったんだろうか。
 絶対、そうに違いない。

 セレンの唇が頬や首すじを辿って、下に降りていく。
 触れられた場所がくすぐったくてたまらなかった。
 それなのにもっと続けて欲しくて、セレンをぎゅっと抱きしめる。 
 セレンはわたしの着ているトレーナーの襟の縁をなぞるようにキスをしたあと、耳元で吐息混じりに囁いた。 
 
「ここから先にもキスしたい」

 これってもしかして―――わたしの予想は、多分間違っていないと思う。
 でも、セレンからの誘いは嫌じゃなかった。
 むしろ嬉しかった。
 まるで、その言葉を待っていたみたいに、わたしの鼓動が弾んでいる。
 不安がないと言えば嘘になるけど、今ならセレンの気持ちに答えられる。
 きっと、大丈夫だ。

 一度大きく頷くと、セレンはわたしを強く抱きしめた。

 

 
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