振り解いて、世界
side:セレン
「キスは嫌いだからしたくないって、前に言わなかった?」
セレンはベッドの端に座ったまま軽く顔を傾けると、近付いて来た女を冷ややかに見上げた。
胸元の大きく開いたタイトなワンピースに身を包んだ女は、紅いリップグロスがたっぷりと乗った唇を分かりやすく歪ませる。
綺麗に整った顔を背けた後、セレンの首に回した腕に一度だけぎゅっと力を入れ、名残惜しそうに離れていった。
「一回くらい、別にいいじゃん」
女は、床についたセレンの足元にちょこんと座り、ジトっとした目つきで長いワンレングスの髪をかき上げる。
でもセレンは眉一つ動かさず、素っ気ない口調で言い放った。
「今日はもういいわ。帰る」
「待ってよ、ごめん。今のはわたしがだめだった。お願い、帰らないで」
ベッドから立ち上がったセレンに合わせて、女も素早く立ち上がる。
細い廊下を歩くセレンの背中にしがみつき、「ごめん」と何度も繰り返した。
「離して」
「セレンくんが嫌なことはもうしないから。続き、しよう? わたし、セレンくんに嫌われちゃったら生きていけないの」
「だる。離せって言ったの聞こえなかった?」
棘のある声色に、女は肩を大きく震わせる。
セレンは力の抜けた女の手を払い除けると、段差のない狭い玄関で靴を履いた。
「セレンくん、また会えるよね」
背後から、力のない声が耳に届く。
「めんどくさいからもう会わない」
「どういうこと? 何がだめだったの? どうしてずっと冷たいの? 連絡も返ってこないし、普段何してるのか分かんないし。一つも教えてくれないなんて酷いよ。わたし、ずっとセレンくんのこと考えて……」
セレンは女の言葉を遮るように振り向くと、冴え冴えとした漆黒の瞳で女を鋭く射った。
「おまえ、おれの何なの? そういうとこだよ、めんどくさいの」
無言になった女に見向きもせず、セレンは冷たい足取りで玄関を出た。
空気が徐々に温度をなくしていく紫色の空の下、セレンはダウンジャケットのポケットに手を入れた。
これから一人暮らしの家に、ベースを取りに帰る。
今の家は高校を卒業してからすぐ―――1年半くらい前にマンションごと譲り受けて住み始めた。
マンションの持ち主だった叔父にはまだ一人暮らしは早いと言われたけど、セレンは一刻も早く実家を出たかった。
裕福な家庭で育ったものの、大規模な同族経営企業のトップに立つ父と、セレンを生んだ後もキャリアを捨てずに働き続けていた母は家を空けることが多かった。
そして父も母も、セレンが物心ついた頃には外で自由に恋愛を楽しんでいた。
家庭のあたたかみなんて微塵も感じたことがない。
望んでいた時の記憶も既にない。
自分がいずれ家族を持つかもしれないなんてことも、誰かと心を通わせたいとも思わない。
運命なんて言葉を聞くと、とてつもなく白けた気分になる。
決まった相手は作らない。
嫉妬や束縛をしてくる女は邪魔になる。
セフレだけで十分だ。
何かに縛られるのは嫌いだった。
期待するのはもっと嫌いだった。
自由に遊んで、自由に音楽をして、自由に酒を飲んで。
一人でいれば、誰にも咎められない。
セレンには自由以外に必要なものはなかった。
ベースを取りに帰ってから電車で繁華街に出ると、もうすっかり陽が暮れていた。
駅周辺の人込みを抜け、ライブハウスに向かう道に出たところで、雨粒がポツポツと肩や頬を濡らし始める。
歩く速度を早めようとしたその時、前の小さな十字路の隅でオカッパ頭の女がしゃがんでいる姿が目に入った。
段ボールを色々な角度から覗き込み、ゴソゴソと何かをいじくっている。
「おーよしよし、こんな所に捨てられて可哀想に」
歩きながら段ボールを覗いてみると、中で2匹の茶色い子猫が女の手とじゃれ合っていた。
女は子猫の頭を撫でた後、おもむろにコンビニの袋からミルクを取り出し、小さな傷が目立つ餌入れになみなみと注いだ。
「うちではペットが飼えないから連れて帰れないんだよ、ごめんね。誰かいい人が拾ってくれたらいいんだけど……。とりあえずまた後で来るよ。それまでこの傘、使ってて」
女はボロボロのビニール傘を広げると、段ボールに付いていたビニール紐を引き剥がして電柱に括り付けた。
子猫が、できたばかりの透明な壁の向こうでミャアミャアと頼りなく鳴いている。
―――偽善者。
後で来ると言っておきながら、どうせすぐ忘れるんだろう。
気が向いた時にだけ構ってやって、自分はいい人だと周りにアピールする。
中途半端に手を貸して、優しいふりをするやつがセレンは何よりも嫌いだった。
雨足が強くなる中、淡々と十字路を渡り道路を振り返る。
女の背中に冷めた視線を送って、セレンはライブハウスに繋がる古びたビルの階段を降りた。