振り解いて、世界


 鳴り止まない拍手を背に、セレンはバーカウンターの端の席に座った。
 セッションライブで演奏を終えるといつも客席が過剰に沸く。
 演奏は好きだ。
 音楽と向き合っている時だけ、何もかも忘れて集中できる。
 でもその一方で、注目を浴びるのが苦手なセレンは、演奏の度にどんどん過熱する客席の反応に居心地の悪さを感じていた。

「はい、お疲れさま」

 カウンターテーブルに置かれたショートグラスの中でオリーブがコロンと揺れる。
 ちょうど飲みたいと思っていたカクテルを差し出されて気を良くしたセレンは、バーカウンターの奥に向かって軽く会釈した。

「ありがとう、楓さん」

 バーテンダーの楓はタバコを口にくわえたところだった。
 濃厚な紅い唇から落としそうになったタバコを、長く尖った爪で器用につまみセレンを凝視している。
 楓は誰に対しても愛想が良くサッパリとした性格で、セレンがまともに会話を交わす数少ない人物の一人だ。

「セレンくんが素直にありがとうなんか言うなんて珍しい〜。明日は雨かな」
「もう降ってますよ」
「あらそう」

 返事をしながらサッと後ろを向いた楓は、タバコに火を付けた。
 黒人のように細かくうねった長い髪がふわふわと揺れている。
 楓は、アラフォーになる頃までアメリカのクルーズ客船に乗り、専属歌手を務めていたらしい。
 その船に偶然乗り合わせていたマスターが、一目惚れしたのをきっかけに二人は結婚したと聞いている。
 マスターは顔を合わせる度に、「永遠の愛とは素晴らしいものだよ」と言ってくるから、セレンは心底うんざりしていた。

「今日、マスターは?」
「昨日からキューバに行ってんのよ。セレンくんのお友達の……ほら、ドレッドヘアーの、えっと……パーカショニストで……あの子、名前なんだった?」
愛流(あいる)?」
「そうそう、愛流くん。最近キューバに移り住んだじゃない? 早速向こうでソロコンサートをやるっていうから、最初くらいは見てやらないとって突然出て行ったのよ。あの人、好きなミュージシャンはとことん追いかける質だから。セレンくん、その辺りよく知ってるでしょ?」
「事務所はどうなってるんですか。最近会長になって経営から退いたって言ってたけど、急にいなくなって大丈夫なんですか?」

 楓は紫煙をくゆらせながら、唇に人差し指をあてた。
 周りをぐるりと見渡し、セレンに顔を近付ける。
  
「セレンくん、声が大きいわよ。マスターが業界最大手の音楽事務所の会長だってことは皆には内緒にしてるんだから。あくまでもここは彼の趣味の場だからね、皆が公平に音楽を楽しめるようにって。カツラを被ったり眼鏡をかけたりして変装までしてる彼の努力を無駄にしないでよ」
「すみません」
「そういえば、セレンくんがうちの事務所に入ってくれたらってずっと嘆いてるけど。あなたのベースに惚れ込んでるみたいでね。彼が直接スカウトするってなかなかないのよ」
「おれはどこにも入る気はないです。それに早く拠点をロサンゼルスに移したいし」
「まぁ、そうね。セレンくんは海外の方が向いてるかも」

 何かを考えるような表情を浮かべた楓は、カウンター下にある灰皿にタバコの灰を落とした。
 がっかりしたマスターの顔でも思い浮かべているんだろうと察したセレンは、カクテルに沈むオリーブを眺めながら頬杖をつく。
 マスターには16歳の時からお世話になっているものの、音楽事務所に所属するなんてセレンには考えられなかった。
 縛られるなんて絶対に嫌だ。
 フリーで活動をしている分、手間のかかる仕事は増えるけど自分のやることくらいは自分で決めたい。
 それに、日本で必要なキャリアを積んだ後、一刻も早くロサンゼルスに移って本場の音楽に触れたい。
 あちらには化け物級の一流ミュージシャンがゴロゴロいる。
 そんな環境で、自らの実力を試すのがセレンの夢であり目標だった。
 
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