振り解いて、世界


「それでは聴いてください、Let it be」
「セッションだから曲紹介はしないんだよ。自分のライブじゃないんだから」
「そうだった! すみません」

 いろ巴は、ステージの中央に置かれた赤いキーボードの前で恥ずかしそうに頬を押さえた。
 後ろにいるベーシストの男にお辞儀をする。
 と、次の瞬間きちんと並べてあった譜面台が3台ともドミノ倒しのように派手に倒れた。

「頭に当たっちゃった、すみません」
「頼むよ」

 ベーシストがやれやれと顔を覆う。
 上級者向けのセッションライブにド素人が混じっている、とライブハウス内がざわつき始めた時だった。

 丸みを帯びた深みのあるエレクトリックピアノの音が、ブルージーな反復音(トレモロ)を奏でる。
 イントロのピアノソロが高音から低音に向かって滑らかに下りていくと、スモーキーで柔らかい歌声がゆったりとマイクに乗った。
 原曲はロックだけど、かなりジャズに寄ったアレンジだ。
 ワンコーラスを歌い終えたと同時に、ギターとドラムがいろ巴の作るノスタルジックなムードを崩さないよう、音のニュアンスや音量を調節しながら慎重に入る。
 客席はしんと静まり返っていた。
 意外性と耳障りの良さが光る演奏の連続。
 一秒後はどんな心地のいいメロディが流れてくるのかと、皆が夢中になって聴いている。
 スポットライトがステージを明るく照らすと、それぞれの楽器の即興演奏が順番に始まった。

「いろ巴ちゃん、凄くいいでしょ」

 楓にこっそりと話しかけられ、セレンはステージから目を離すことなく何度か頷いた。

「ピアノが個性的で味があるし、歌もいいよね〜。雰囲気作るの上手いし。普段は中級のセッションに来てるのよ。自分がどんなレベルで演奏してるのか分かってないんだと思うのよね、あの子。何度かスカウトされてるところも見かけたけど、いつも断ってるみたい。理由は知らないんだけどね」

 断るだろうな、とセレンは思った。
 ステージに上がって演奏するいろ巴からは、絶対に売れたいという野心のようなものは感じられない。
 むしろそれとは正反対の、音楽に対する純粋な気持ちだけが演奏に現れている。
 その姿勢が、演奏に独特な爽やかさを生み出しているんだろう。
 もしもメジャーデビューをすることになれば、この良さは死んでしまう。
 テレビ業界は華やかに見えるけど、実際はコネクションと実力が物を言う過酷な業界だからだ。
 
 音楽は、本人の性格や性質にかなり影響される。
 いろ巴の演奏には、ヘドロのような世界でも生き抜いていける強かさは微塵もない。
 心に何の混じり気もない反面、(けが)れを知らない危うさを感じる。
 このままだとこの先、ずる賢いやつに何度も騙されて困り果てる姿が簡単に想像できた。
 
 いろ巴は良くも悪くも、世間を知らないのかもしれない。
 どうしてそんな小さな子どものような感覚のままでいられるのか、セレンには不思議で仕方がなかった。
 
「マスターも気に入ってるのよ」
「そうでしょうね」

 ピンスポットライトの灯りがステージの中央に移る。
 放射線状に広がる温かな光が円を描いて、いろ巴を鮮やかに照らし出した。
 ピアノソロが始まる。
 どことなく物悲しさが漂うメロディに合わせて、唇をきゅっと閉じる姿にはなぜか人間っぽさが感じられなかった。
 艶々と輝く瞳は鍵盤をしっかりと見つめているし、次々とセンスのいい音を選ぶ指は今も止まることなく動き続けている。
 それなのに、どうしてだろうか。
 さっきまで隣ではしゃいでいたのが嘘みたいに落ち着いていて、同一人物とは到底思えなかった。

―――綺麗だ。

 セレンはいつの間にか、いろ巴に見入っていたことに気が付いた。
 バーカウンターを挟んだ向こう側から軽快な笑い声が聞こえてくる。

「セレンくんのそんな顔、初めて見たなあ」
「うるさい」

 いろ巴の演奏が終わると、客席から大きな拍手と歓声が沸き起こった。
 演奏前の不穏な空気はどこにもない。
 客席はいろ巴にありったけの賛辞を送り、ライブハウス内は和やかな雰囲気で包まれた。

 いろ巴は満面の笑みで「ありがとうございます!」と客席に向かって叫んだ後、深々とお辞儀をしてからステージを下りた。
 バーカウンターに座るセレンの姿を見るなり、目を輝かせて走ってくる。
 まるで飼い主を見つけた犬のような喜び方で、セレンは思わず笑いそうになった。
 ステージの上で見せていた独特な色香は消え、隣に座っていた時のいろ巴にすっかり戻っている。

「あの」

 何の前触れもなく、黒い背中が二人の間を遮った。
 さっきのベーシストだ。

「君、やってることがちょっと古いと思うよ。イントロがしつこいからもうちょっとあっさり入ったらいいと思うし、使ってるコードも野暮ったいというか。歌もだらっとしてるから、盛り上がるように高い音とか使って声を明るくしたらどう?」
「はい……」

 いろ巴の顔は見えないものの、聞こえてくる声には張りがなく元気がない。

「セッションになれてないからかもしれないけど、やっぱり客席を盛り上げないとさ」
「分かりました。力不足ですみません」
「次からはちゃんとやってよ。大体、セッションなのに何であんな寂しい感じのアレンジにしたの? 楽器が全然目立たないし」
「すみません。やってみたくて……」
「だめだめ。普通はやる前から分かることだから」

 どうやらいろ巴は、的の外れまくった意見を真剣に聞いているらしい。
 自尊心が高く偏見だらけのミュージシャンが、才能のある若手を潰そうとする場面は腐るほど見てきたけど、なぜか今日は放っておけなかった。
 セレンは静かに席を立つと、いろ巴とベーシストの間に入った。
 周りの席に座っていた客達が一斉にざわつく。

「そうやって若手潰して楽しい?」
「へ?」

 傍から見ると意外な光景だったんだろう。
 セレンが腕を組みながら黙って見下ろすと、中年のベーシストの男が口をパクパクとさせた。

「セ、セレンさん? どうして? 二人にはどういう繋がりが……」
「偉そうに説教するなら、演奏する時くらい空気読めよ」
「え、いや……だって」
「こいつのやりたいこと全然分かってねぇじゃん。ベテランぶってるだけで、ベースはめちゃくちゃうるさかった」

 目の前のベーシストの男は固まって動けなくなった。
 周りから「セレンさんがかばってる」「珍しいやばい」「あのベーシスト死んだ」と口々に聞こえてきたけど、セレンは気にすることなく振り返った。
 不安げだったいろ巴の顔が、みるみるうちに明るくなっていく。

「セレンさん、助けてくれてありがとうございます。ホッとしました」
「助けたつもりは全然ないけど。変なやつに絡まれたら、言い返すなり受け流すなり何かすれば?」
「いえ、これも一つの意見だからちゃんと聞かないとと思ってたんですけど……正直、耳が痛くなることばかりで」
「あほか。相手の言葉にどんな意図があるのかちゃんと考えろよ」

 セレンが眉を寄せると、いろ巴は関心したように深く頷いた。 

「なるほど……」
「何?」
「確かにセレンさんの言う通りだと思います。わたし、分かってませんでした。これからはちゃんと気を付けます。演奏も自信持って頑張りますね。ありがとうございます」
「ふぅん」
「それに、わたし勘違いしてました。セレンさんって、もっとクールな人なのかなって思ってたんです。凄く優しいんですね」
「は」

 珍しく言葉を失ったセレンは、大きく目を見張った。
 いろ巴を助けようとして動いたわけじゃない。
 いつも見ていた光景が、今日は何となく気に入らなかっただけだ。
 けれど目の前でいろ巴が嬉しそうに微笑んでいるのを見ていると、どうしてか否定する気持ちにはなれなかった。
 
「なんか調子が狂うな」
「え?」
「何でもない」
「そうですか」

 不思議そうに首を傾げるいろ巴を後目に、セレンは無言でバーカウンターに戻った。

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