振り解いて、世界
ライブハウスを出て階段を上がると、ひどい雨風だった。
老朽化した雑居ビルの軒下で、いろ巴は雨に濡れないように身体を引っ込めながら、すぐ前の道路をキョロキョロと見回している。
「駅まで走る?」
「ううん、ちょっと待ってね」
「おい」
いろ巴は何の躊躇いもなく雨の中に飛び込み、道路を渡ると電柱の近くでしゃがんだ。
さっき捨て猫がいた場所だ。
電柱に括り付けてあったビニール傘を取り、所々に溜まった水溜りでワイドパンツの裾を濡らしながら戻って来る。
「良かった。さっき、あそこに猫がいたんだけどね。誰かが家に連れて帰ってくれたみたい」
たった数分、雨に打たれただけでポロポロと雫が垂れるくらい髪が濡れている。
その髪を耳にかけながら、いろ巴は心底ホッとした笑みを浮べて「はい」と、セレンにビニール傘を差し出した。
セレンは一緒に傘に入るものだと思い、何も言わずに受け取る。
「じゃあ、また!」
再び雨の中に飛び込もうとするいろ巴の腕を、慌てて握る。
いろ巴は振り返るなり、目を丸くさせた。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃねぇよ。どこ行くの?」
「家だよ」
「電車は?」
「さっき、猫ちゃんのご飯を買って帰りの電車賃がなくなっちゃったんだよね。だからここから走って帰るよ」
「は? 家、近いの?」
ライブハウスに入る前、雨が降り始めた十字路の隅で、子猫の様子を心配そうに伺ういろ巴が、餌入れにミルクを注いでいた姿を思い出す。
あの時は、いい人ぶった鬱陶しい女だと思っていた。
暗闇の広がる空が一瞬明るく光り、軒先から滝のような雨水が流れ落ちる。
轟き渡る雷鳴を背に、いろ巴は子どものように小さく首を振った。
「ううん、1時間くらい。でも大丈夫だよ、わたしほとんど風邪なんかひいたことがないから」
「どこが大丈夫なんだよ。この傘返す」
セレンは傘の手元をいろ巴に向けたものの、いろ巴は胸元の前で両手を振った。
「だめだよ」
「何で?」
「セレンさん楽器背負ってるじゃん。わたしは濡れても拭いたらおしまいだけど、ベースはだめになっちゃうよ。気にしないでその傘使って。ボロいけどさ」
いろ巴の言った通り、受け取った傘は所々破けたり錆びついたりはしているけど、今のセレンにとってそれはどうでもよかった。
「夜遅くに雨の中を一人で1時間も走るって……何考えてんだよ」
「もう。早くしないと電車なくなっちゃうよ。わたしは大丈夫だから」
「おまえ、誰にでもこうなの?」
いろ巴が不思議そうに眉を上げる。
意図せず嫉妬深い彼氏みたいなセリフを吐いてしまい、ばつが悪くなったセレンは目をそらした。
「おまえじゃないよ。わたし、いろ巴だよ。高園いろ巴! ちゃんと覚えてね。じゃあ」
「待てって」
懲りずに飛び出そうとするいろ巴の肩を、今度は優しく掴む。
「電車賃くらい出すから駅まで一緒に行こ」
「え、本当に? でも悪いよ」
「おれもこの傘借りるから、おあいこ」
「おあいこ……セレンさん面白いなあ。分かったよ、ありがとう。また次に会った時に返すね」
「いや」
それくらいやるよ、と言いかけてセレンは押し黙った。
いろ巴が下から顔を覗き込んでくる。
幼く見えていたはずの艶々とした瞳が雷光に照らされた途端、セレンの鼓動が跳ねた。
「セレンさん?」
「おれ達、次はいつ会えるか分かんないよ」
「次のセッションには絶対来るよ。そしたら会えるでしょ?」
「分かんない」
セッションには必ず来ているはずなのに、気が付けばそう答えていた。
いろ巴は何か考えているようだけど、またあの瞳に貫かれそうでそらした視線を戻すことができない。
「どうしよう。どうやったら、また会えるかなあ」
鼓動がまた一段と大きく跳ねる。
勝手にそうなっただけで、理由は分からない。
セレンは初めての感覚に戸惑いながらも平静を装い、ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「ライン交換しよ」
「あ、それいいね! そうしよう」
誰かに連絡先を聞くなんて初めてだった。
ロック画面を解除したところで、いろ巴が首を傾げる。
「セレンさん、仕事も忙しいだろうけど練習もすっごくやってて大変でしょ? わたし、いつでも返しに行けるから、タイミングが合えば気軽に教えてね」
「ほんとにいつでもいいの?」
「いいよ。セレンさんの都合のいい時で」
トクトクと、セレンの鼓動が早くなっていく。
止まっていた時間を刻み出すように。
うるさいくらい力強くトクトク、トクトクと。
「何でおれが練習ばっかしてるって分かったの?」
「だって左手の小指の爪なんか普通、割れないよ。そんなに痛そうなのに、セレンさん気が付いてないみたいだったから慣れてるんだろうなって思って。そんなの見たら、大事にしたくなるじゃん。セレンさんの音楽をさ。雨に濡れるくらい平気だよ」
いろ巴が柔らかに目を細め―――セレンは自覚せざるを得なかった。
セレン自身を認めてくれる存在を、ずっと探していたということを。
彩りをなくした心が再び芽吹く場所を、求め続けていたということを。
生まれ育った家にも、たくさんの歓声や拍手の中にも、身体だけの繋がりを持った女にも、それはどこにもなかった。
けれどいろ巴は、セレンが欲しくて堪らなかったものを、いとも簡単に差し出してくれる。
しかも、幸せそうに。
「さん、はいらない」
「え?」
「セレンでいいよ」
「分かった。なんか仲良くなれたみたいで嬉しいよ、ありがとう」
きっと微笑んでいるだろういろ巴の顔をまともに見られないまま、広げた傘をさして隣に並ぶ。
ソワソワするのに、居心地は決して悪くない。
「帰ろっか、セレン」
心地のいい声が鼓膜を刺激する。
セレンの心に、優しい世界が生まれた瞬間だった。
その温もりに触れ、セレンの心が雨に濡れる暗闇に溶けていく。
これから紡いでいく二人の関係を、何よりも大切に守り抜いていこうと心に誓い、セレンは足を一歩前に踏み出した。