振り解いて、世界
振り解いて、世界
馴染みの小さなライブハウスは、今日もたくさんの人達でにぎわっていた。
楽しそうな笑い声が響き、タバコの匂いが鼻を掠める。
ステージでは、まだ上級者向けのセッションの空気に慣れていない初々しいミュージシャン達が、演奏を終えてバタバタと後片付けを始めた。
「この間、横領事件で捕まったプロデューサーって、桝田彩世のお父さんらしいよ」
「あぁ、知ってる〜。桝田彩世も終わったね。あんまり好きじゃないタレントだったから別にどうでもいいけど。結婚するんだっけ?」
「あれもガセらしいよ。色々終わってるよね」
ふと耳に入ってきた会話にひかれて振り返ろうとしたと同時に、セレンに軽く肩を掴まれた。
バースツールに座るセレンが優しい目つきでわたしを見つめている。
思わず口元が緩むと、どこからか大きな咳払いが聞こえてきた。
「おまえらが仲いいのはよく分かったから、そこで熱く見つめ合うな!」
セレンの隣に腰を下ろし、ケタケタと笑いながらドレッドヘアーを揺らしているのはセレンの友達の愛流くんだ。
つい最近、キューバから帰ってきたらしい。
二人は中学の同級生で、お互いに切磋琢磨し合ってきた仲だとか。
愛流くんの話はたまにセレンから聞いていたけど、実際に顔を合わせてみると面白くて底抜けに明るい人だった。
「いやぁ、セレン、ほんとに丸くなったよなぁ。そんな緩んだ顔するなんて、昔じゃ考えらんねぇよ。いろ巴ちゃん、これからもセレンのこと宜しくな」
握手を求められたけど、わたしよりも先にセレンが愛流くんの手を握る。
「あざーす」
「おまえじゃねぇよ。うわぁ、いろ巴ちゃんには誰にも触らせないって感じがすげー伝わってくるわ。独占欲の強い男しんど」
愛流くんが深い溜め息をつく。
セレンは愛流くんの手を振り払い、頬杖をついた。
「うるせーな」
「愛流くん、いいじゃない。二人はもうすぐ結婚するんでしょ? 特別に幸せな時期なんだから、ね」
バーカウンターで静かに話を聞いていた楓さんが、愛流くんの前にグラスビールを置いた。
タバコを口にくわえた愛流くんは、わたし達を交互に見て何度も頷いている。
「ほんとだな。楓さんから聞いたけど、セレンが長年片思いしてたんだって? まじでありえねぇわ」
「そうよ、誰が見ても分かるくらいセレンくんは態度に出してたわよね。肝心のいろ巴ちゃんがいつまでたってもセレンくんの気持ちに気が付かないから、どうなることかと思ったけど。良かった、丸く収まって」
「え……そうだったの?」
セレンは頬杖をつきながら、穏やかに口角を上げた。
今の話が本当だったのかと思うと、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちがごちゃ混ぜになって浮かんでくる。
それだけ分かりやすく態度に出してくれていたのにまったく気持ちに気が付かないなんて、人の気持ちに鈍感なのもいいところだ。
こんなわたしと、これからも一緒にいてセレンは嫌にならないんだろうか。
「そういうところも良かった。面白いし癒される」
「惚気か!」
「わたしはそう言うと思ったけど」
皆のやり取りに、笑みがこぼれる。
ちょっとした不安なんかすぐに吹き飛んでしまうくらい、最高に楽しくて幸せだ。
一ヶ月前、お互いの思いが通じ合ってすぐにセレンから結婚しようとプロポーズを受けた。
わたしもセレン以外の人と一緒になるなんて考えられなかったし、付き合ってすぐだったけど不思議とそれが自然の流れだと感じたこともあってその場ですぐに頷いた。
何年後くらいに結婚するんだろうなと呑気に考えていたら、まさかロサンゼルスに行く前に籍を入れることになるなんて夢にも思わなかったけど。
「セレン、ロサンゼルスにはいつ行くんだっけ?」
「来年の春かな。3月くらい」
「春? おまえ、今年の年末までには行くって言ってなかったっけ?」
「わたしが通ってる幼稚園の年長組の子達が卒園してから一緒に行くことになって。セレンは向こうで仕事も入ってるし、先に行きなよって言ったのは言ったんだけど……」
「え、じゃあ仕事どうしてんの?」
「待ってもらってる」
愛流くんは溜め息をつきながら額に手を当てた。
「どんだけVIP対応なんだよ。ばかじゃねえの、まじで」
「先に向こうから予定がズレるって連絡が来たから調整できたんだよ」
「おまえがロサンゼルスで所属するレコード会社って世界的に有名なデカいとこじゃん。しかも一発目のレコーディングがヒットチャート常連のアーティストだし。普通ならすぐに飛んで行くだろ」
「セレンくんの気持ちも分かるわよ。二人で一緒に行けるなんて本当に良かったじゃない。いろ巴ちゃんはロサンゼルスに行ったらどうするの? 何か考えてる?」
楓さんはにこやかな顔でロックグラスに口を付けた。
「わたし、向こうで子ども達にピアノを教えたいなと思いまして。できれば音楽教室を開いて、たくさんの子ども達と関われたらいいな、なんて」
「凄くいいじゃない。いろ巴ちゃんって英語はできるの?」
「いえ、ほとんど喋られないのでセレンに教えてもらいながら勉強してます」
「そんなの、すぐに喋られるようになるわよ。頑張ってね」
「ありがとうございます!」
観客が沸きステージを見ると、司会者が次に演奏するミュージシャン達の名前を発表しているところだった。
先に呼ばれたのは、先日レコード大賞を獲ったばかりの人気男性シンガーだったようで、彼がステージに上がるとライブハウス内が拍手と歓声に包まれた。
「ベース、セレンさん! パーカッション、愛流さん!」
二人の名前が続けて呼ばれるとさらに大きな拍手が沸く。
客席から「やばすぎるメンバー」「えぐい」と口々に聞こえ、ライブハウス内の熱気が増した。
わたしも二人の演奏が凄く楽しみだ。
セレンがベースを背負っている横で、オレンジジュースの入ったグラスを口元に運ぶ。
「キーボード、いろ巴さん!」
「ぶっ」
口に含んだオレンジジュースを吐き出しそうになり手で抑える。
ここでわたしの名前が呼ばれるなんて思わなかった。
このメンバーでわたしが演奏するなんて無理だ。
人選ミスもいいところだろう。
顔を上げると、セレンがくすくすと笑いながらわたしを見下ろしていた。
「いろ巴、呼ばれたよ」
「知ってるよ。何でわたしなの? 無理だよ!」
「大丈夫だよ」
「無理だって!」
慌てるわたしの前に、セレンがそっと手を差し出す。
わたしを覗き込むように見つめ首を傾げると、ゆっくりと唇を開いた。
「おいで、後悔はさせないから」
純白の光が微かに滲んだ漆黒の瞳が、見たこともないくらい綺麗に輝いてわたしは思わず息を呑んだ。
普段は見えないこの優しさに、わたしは大きく包まれてきた。
一見冷たいように見えるけど、本当は温かい心を持った穏やかで繊細な、この人に。
セレンがいてくれるから、わたしは心から笑える。
我慢せずに泣ける。
格好つけずに本音をぶつけられる。
小さな喜びを分かち合える。
自分のことなんかどうでも良くなるくらい、セレンを支えたいと思える。
セレンとの出会いは偶然だったけど、二人の時間を過ごしているうちに、わたしの中で少しずつ奇跡に変わっていった。
その奇跡は今、わたしの生きる世界を優しく彩っている。
セレンがいて初めて輝きだしたこの世界を、ずっと大切にしていきたい。
差し出された手に、わたしの手を重ねる。
ぎゅっと握り返されると嬉しくて泣きたくなった。
二人が出会えた幸せを胸に抱いて、これからも一緒に歩んでいく。
この手を、この世界を―――振り解かずに。
振り解いて、世界
【了】