イケメンシェフの溺愛レシピ
「いらっしゃいませ…あら!」
店内に入ると、わずか8席ほどのカウンターの中にいた、50代か60代だろうか…夫婦がすぐに笑顔を見せた。
「こんにちは。時間的に大丈夫かなと思って予約しなかったんだけど」
「もちろん大丈夫よ。座って、座って」
そう言って頭をきゅっとまとめた、白い割烹着がよく似合う女将さんが綾乃にも声をかけた。
「さ、お嬢さんも」
お嬢さんなんて言われる年齢じゃないのだがと思いながら、お礼を言って腰かけると、旦那さんと思われる店主が言った。
「注文より先に、まずは紹介してもらわないとなあ」
ぶっきらぼうっぽい口調と、気持ちのいい笑顔。ちょっと荒っぽい感じもあるけれど少しも怖くなかった。
すると哲也と女将さんが笑った。
哲也はコホン、と少しかしこまったように咳払いをしてから言った。
「綾乃、こちらは川上さんご夫妻。今はお二人でこの割烹かわかみを経営されていて、マスター…大将はたけ久の元料理長だったんだ。」
突然の紹介に綾乃は驚きながらも頭を下げる。
「それから、こちらは中原綾乃さん。僕の、大事な人です」
いつもの第一人称が‘俺’の哲也が‘僕’というくらい丁寧に接する相手だということを綾乃は知る。
そしてその哲也の言葉に二人が目を細めて微笑んだ。
綾乃は、まさかの紹介につい顔を赤らめてしまう。夕食時の哲也の両親の前でこういう紹介があるかもとは思っていたけれど、まさか前倒しでこんな展開があるなんて。まるで予行練習みたいだ、と思うと、哲也の気遣いを感じてしまう。
その言葉を聞いて店主と女将は柔らかく微笑んだ。
「何でも好きなの言って。サービスするよー」
マスターは流し台でザーザーと音を立てて何かを洗いながら、気持ちよい口調で語りかけてくれた。
「実は今夜はたけ久に呼ばれているんです。だからあまり重くないように、ご飯、吸い物、煮物、焼き物と一通り少しずつもらえたら。ああ、あとデザートも」
哲也が言うと、了解とマスターは背を向けて早速何か準備しているようだった。
「先付けです」
そう言って女将から差し出された銀杏といくらを使った華やかな1品に目を奪われつつも、哲也に聞いた。
「どうしてここにランチに?」
哲也はごく自然な仕草で箸を左手で取り、そして右手に持ち替えると言った。
「和食の雰囲気に親しんでもらうのと、川上さんたちに会って欲しかったからね。川上さんがいなければ、今の俺はない。恩人なんだ」
詳しく教えて、と言ったところで旬のさんまが出される。青く清々しいすだちと大根おろしを添えられて、今すぐ食べろ、と言わんばかりの香ばしい香りが立ち込めていた。
食欲を刺激する料理を目の前に、いつも通り、おいしいうちにと哲也は綾乃に料理を勧めた。哲也が先ほどしたように左手で箸を取り、右手に持ち替えてからさんまのパリパリの皮とふっくらとした身にそっと箸を入れて、口に運ぶとあらゆる緊張から解放される。おいしい、と言う表情で綾乃は哲也の顔を見る。哲也はよかったと微笑むと、少しだけ真面目な横顔をして言った。
「十五年くらい前になるな。海外に出たい、と言った俺を両親は引き留めたんだ。何のために外国に行くのか。日本料理の料亭の跡取りが何をしに行くのだと、両親は言った。一人息子だったしね。でも、そのとき応援してくれたのが川上さんだった。外に出てわかることもあるし、必要な和食の知識や技術はいつでも自分が教えると言ってね。それで両親は納得して送り出してくれた。」
哲也と川上さんとの間にある、自分の知らない絆と歴史に、綾乃はきゅっと胸を締め付けられる。こうして気軽に会って話すことができるけれど、哲也は古くから続く老舗料亭の跡取り息子だった。綾乃の知らない苦労があるのだろうと思いながら、その横顔を見つめていたときだった。
「頑張ってね。何かあったらいつでもここに来てね」
その女将の言葉は、何気ないものだっただろう。綾乃を不安にさせようとか、心配させようとか、そう言うのは何もない、ただ応援してくれているだけの言葉。それはきっと外国で仕事をしたいと言った哲也の背中を押した言葉でもあったに違いない。それでも、何かあったら…なんて言われると、今日の綾乃はつい余計なことを考えてしまそうになる。
それに気づいた哲也はすかさず綾乃の背中にそっと触れ、言った。
「ここに連れてきたのは、ただ俺の大事な人たちに会ってもらいたかっただけだよ。」
その瞬間、単純なくらいに綾乃の胸に安堵感がこみあげてくる。振り返ってみれば、仕事以外で哲也の親しい人に会わせてもらうことなどなかったのだから。まして、哲也がイタリアに渡るために尽力してくれた人たち。
「さあ、美味しいうちに食べよう」
哲也に促され、綾乃は料理を口に運ぶ。哲也の真似をしながら、箸の持ち方、置き方。お椀を扱う仕草、ひとつひとつ。事前にいくらか下調べしてきたものの、哲也が目の前で実践してくれるのはテキストを読むよりずっと参考になる。
いろいろなことを考えることよりも、目の前で必死にならなければいけないことのほうが多い。
「炊き込みごはんです」
そう言って女将に差し出された紅葉が吹き寄せられたような彩りの、きのこ、鮭の入ったごはんを食べると、とたんにエネルギーが湧いてくる感じがした。
口に含んだ瞬間、和食とイタリアンとでジャンルこそ違えども、大事にしているものが哲也と同じなのだとわかる。哲也がどうして自分をこの場所に連れて来てくれたのかを、それも実家に出向く前に、どうしてこの場所で食事をさせてくれたのかも、わかると綾乃は思った。
目の前の食事に笑顔になる綾乃の背中に、女将は優しく触れて言った。
「パワーつけて!元気よく行ってらっしゃい。」
ね、と女将に微笑まれると、つられて綾乃も笑顔になってしまう。
元気よく行ってらっしゃいと言う言葉には、まるで魔法の呪文みたいだった。同時に、そのままのあなたでいいと言ってもらっているみたいな…そんな魔法。
このあと起こることがどんなことなのかを考えたくないとかでなくて、たとえどんなことがあっても笑顔でいたいと思わせてくれる。
割烹かわかみは、そういう場所だった。
店内に入ると、わずか8席ほどのカウンターの中にいた、50代か60代だろうか…夫婦がすぐに笑顔を見せた。
「こんにちは。時間的に大丈夫かなと思って予約しなかったんだけど」
「もちろん大丈夫よ。座って、座って」
そう言って頭をきゅっとまとめた、白い割烹着がよく似合う女将さんが綾乃にも声をかけた。
「さ、お嬢さんも」
お嬢さんなんて言われる年齢じゃないのだがと思いながら、お礼を言って腰かけると、旦那さんと思われる店主が言った。
「注文より先に、まずは紹介してもらわないとなあ」
ぶっきらぼうっぽい口調と、気持ちのいい笑顔。ちょっと荒っぽい感じもあるけれど少しも怖くなかった。
すると哲也と女将さんが笑った。
哲也はコホン、と少しかしこまったように咳払いをしてから言った。
「綾乃、こちらは川上さんご夫妻。今はお二人でこの割烹かわかみを経営されていて、マスター…大将はたけ久の元料理長だったんだ。」
突然の紹介に綾乃は驚きながらも頭を下げる。
「それから、こちらは中原綾乃さん。僕の、大事な人です」
いつもの第一人称が‘俺’の哲也が‘僕’というくらい丁寧に接する相手だということを綾乃は知る。
そしてその哲也の言葉に二人が目を細めて微笑んだ。
綾乃は、まさかの紹介につい顔を赤らめてしまう。夕食時の哲也の両親の前でこういう紹介があるかもとは思っていたけれど、まさか前倒しでこんな展開があるなんて。まるで予行練習みたいだ、と思うと、哲也の気遣いを感じてしまう。
その言葉を聞いて店主と女将は柔らかく微笑んだ。
「何でも好きなの言って。サービスするよー」
マスターは流し台でザーザーと音を立てて何かを洗いながら、気持ちよい口調で語りかけてくれた。
「実は今夜はたけ久に呼ばれているんです。だからあまり重くないように、ご飯、吸い物、煮物、焼き物と一通り少しずつもらえたら。ああ、あとデザートも」
哲也が言うと、了解とマスターは背を向けて早速何か準備しているようだった。
「先付けです」
そう言って女将から差し出された銀杏といくらを使った華やかな1品に目を奪われつつも、哲也に聞いた。
「どうしてここにランチに?」
哲也はごく自然な仕草で箸を左手で取り、そして右手に持ち替えると言った。
「和食の雰囲気に親しんでもらうのと、川上さんたちに会って欲しかったからね。川上さんがいなければ、今の俺はない。恩人なんだ」
詳しく教えて、と言ったところで旬のさんまが出される。青く清々しいすだちと大根おろしを添えられて、今すぐ食べろ、と言わんばかりの香ばしい香りが立ち込めていた。
食欲を刺激する料理を目の前に、いつも通り、おいしいうちにと哲也は綾乃に料理を勧めた。哲也が先ほどしたように左手で箸を取り、右手に持ち替えてからさんまのパリパリの皮とふっくらとした身にそっと箸を入れて、口に運ぶとあらゆる緊張から解放される。おいしい、と言う表情で綾乃は哲也の顔を見る。哲也はよかったと微笑むと、少しだけ真面目な横顔をして言った。
「十五年くらい前になるな。海外に出たい、と言った俺を両親は引き留めたんだ。何のために外国に行くのか。日本料理の料亭の跡取りが何をしに行くのだと、両親は言った。一人息子だったしね。でも、そのとき応援してくれたのが川上さんだった。外に出てわかることもあるし、必要な和食の知識や技術はいつでも自分が教えると言ってね。それで両親は納得して送り出してくれた。」
哲也と川上さんとの間にある、自分の知らない絆と歴史に、綾乃はきゅっと胸を締め付けられる。こうして気軽に会って話すことができるけれど、哲也は古くから続く老舗料亭の跡取り息子だった。綾乃の知らない苦労があるのだろうと思いながら、その横顔を見つめていたときだった。
「頑張ってね。何かあったらいつでもここに来てね」
その女将の言葉は、何気ないものだっただろう。綾乃を不安にさせようとか、心配させようとか、そう言うのは何もない、ただ応援してくれているだけの言葉。それはきっと外国で仕事をしたいと言った哲也の背中を押した言葉でもあったに違いない。それでも、何かあったら…なんて言われると、今日の綾乃はつい余計なことを考えてしまそうになる。
それに気づいた哲也はすかさず綾乃の背中にそっと触れ、言った。
「ここに連れてきたのは、ただ俺の大事な人たちに会ってもらいたかっただけだよ。」
その瞬間、単純なくらいに綾乃の胸に安堵感がこみあげてくる。振り返ってみれば、仕事以外で哲也の親しい人に会わせてもらうことなどなかったのだから。まして、哲也がイタリアに渡るために尽力してくれた人たち。
「さあ、美味しいうちに食べよう」
哲也に促され、綾乃は料理を口に運ぶ。哲也の真似をしながら、箸の持ち方、置き方。お椀を扱う仕草、ひとつひとつ。事前にいくらか下調べしてきたものの、哲也が目の前で実践してくれるのはテキストを読むよりずっと参考になる。
いろいろなことを考えることよりも、目の前で必死にならなければいけないことのほうが多い。
「炊き込みごはんです」
そう言って女将に差し出された紅葉が吹き寄せられたような彩りの、きのこ、鮭の入ったごはんを食べると、とたんにエネルギーが湧いてくる感じがした。
口に含んだ瞬間、和食とイタリアンとでジャンルこそ違えども、大事にしているものが哲也と同じなのだとわかる。哲也がどうして自分をこの場所に連れて来てくれたのかを、それも実家に出向く前に、どうしてこの場所で食事をさせてくれたのかも、わかると綾乃は思った。
目の前の食事に笑顔になる綾乃の背中に、女将は優しく触れて言った。
「パワーつけて!元気よく行ってらっしゃい。」
ね、と女将に微笑まれると、つられて綾乃も笑顔になってしまう。
元気よく行ってらっしゃいと言う言葉には、まるで魔法の呪文みたいだった。同時に、そのままのあなたでいいと言ってもらっているみたいな…そんな魔法。
このあと起こることがどんなことなのかを考えたくないとかでなくて、たとえどんなことがあっても笑顔でいたいと思わせてくれる。
割烹かわかみは、そういう場所だった。