イケメンシェフの溺愛レシピ
先日の哲也との会話については、もちろん誰にも言わなかった。
哲也には、料理がおいしいとか、楽しい食事だったと話した。それは本当だ。思いがけずいい話を聞かせてもらえたと綾乃は思う。
それでもあの最後の言葉。

「もし綾乃さんが、そういう気持ちになったら、哲也と一緒になってあげてくださいな」

それはたけ久の跡取りの母親としての言葉だった。
もしも哲也がたけ久を背負っていなければ、そんな話はなかったはずだったし、哲也の母親もそんなことを言わなかっただろう。言うしかなかったのだ。たけ久を旦那と一緒に支えてきた夫人として。
その未来を選ぶかどうか悩むことは、哲也を好きになった定めと言えるだろう。
いつも通り出社して、騒がしく打合せに取材に撮影をして、また休日がやって来て、新しい年がやってくるというのに、答えは、まだ出ない。

クリスマスはもちろんコン・ブリオは大忙しだったし、綾乃も年末年始の特番などでスケジュールはいっぱいで、隙間時間に少し食事をした程度で、大事な話ができるような状況ではない日々が続いていた。
それからお正月のムードが過ぎ去った1月半ばだった。

「兼任、ですか?」

チーフプロデューサーからの呼び出しに綾乃は険しい顔をした。

「中原もニュースになっていたのを知っているだろう?うちの局の番組で不正データが問題になった件だ」

綾乃は、ああ、と納得した顔をみせた。
以前から怪しいと言われていたそのゴールデンタイムの番組は、思いもよらないデータで世間を驚かせるのが好きだった。
例えば、納豆は食べれば食べるほどに痩せるとか、こんにゃくで太るタイプの遺伝子だとか、そういう意外性のあるデータを集めて視聴率を集めていた番組だ。
怪しいと噂されてはいたが、先月、ついに暴露記事が出て問題になり、テレビ局としても責任を負う事態になったのだ。

「番組はもちろん終了。担当スタッフも解雇して総入れ替えで新番組に臨む。中原も知っているようにスポンサー離れや資金力の問題もあって、今できる範囲で新番組を作らなければいけないんだ」
「それで私、ですか。」

綾乃は険しい表情を見せる。現状でさえいっぱいいっぱいなのに、これ以上を抱えこむのは当然不安だ。

「ADのサポートも、派遣スタッフなどで増員するつもりだ。もちろん体力的に無理がないようにスケジュールは組みたい。中原のようなディレクターは重要なんだよ」
「…ええ」

綾乃ははっきりしない返事をした。もしも5年前くらいの、やる気に満ち溢れた自分だったら、はい、頑張ります!と強い言葉で返事をしただろう。
それから少しだけ大人になって、まだまだ働き盛りとはいえ20代とは違う。体力のピークを過ぎた今の自分には、どうしても即答はできなかったのだ。
今回で明るみになったテレビ業界の影の部分についても、綾乃自身、見て見ない振りはできない問題だった。視聴率を稼ぐためにどこかで誰かが無理をしている現実。

それでも、こんなに気軽に大勢の人に必要なことを届けられて、笑顔にすることができるのも、テレビの力ではあった。
それを信じたいとは思っている。

「いい返事を待っている。」

そう言って、来週までに返事をするようにと言われてチーフの部屋を出た。

「綾乃さん、新番組就任ですか?」

部屋を出るなり横から現れた智香に言われて綾乃はぎょっとする。なんでわかったの、と言う綾乃の気持ちを見透かしたように智香が言った。

「噂になってたんですよ。新番組に引き抜かれるのは絶対に綾乃さんだって。視聴率取れるし、ちゃんとした人脈も多いしって」
「まだわからないわよ」

言いながら、綾乃は自分の気持ちが思った以上にはっきりしないことに気づかされる。報酬が増えるから頑張りたいとか、体力に自信がないから断りたいとか、そういうのだけじゃない。
考えることは、自分がこの先、どうしたいのか。私が私として、これからどう生きていきたいのか。
もはや壮大なテーマとなって綾乃の頭を悩ませる。何をしても悩むことはあるだろうけど。

「私はどこにいっても綾乃さんを信じてますから」

わずか1,2年とはいえ、熱い仕事を共にしてきた智香が堂々とした笑顔を見せて言った。そのとき、自分が失くしたくないものがこの胸に浮かび上がるのを、綾乃は確かに感じた。
< 40 / 55 >

この作品をシェア

pagetop