イケメンシェフの溺愛レシピ
すっきりしない気持ちを抱えながら綾乃はついじっと哲也を見つめる。同時に、智香の元気のいい日本語が少し先の方から聞こえた。
「綾乃さーん!ジェラート食べ終わったら泉にコイン投げましょー!」
泉というよりも芸術作品と呼べる彫刻で作り上げららえたトレヴィの泉には、後ろ向きにコインを投げて入ると願いが叶うという。
「アヤノ、コインは3枚だよ」
フラヴィオがそう言って綾乃にイタリアの硬貨を3枚手渡してきた。
「へえ、そういうものなのね?」
綾乃はくすんだ銀色の硬貨を眺めながら泉に背を向けて投げ入れる姿勢をとる。
「あ、綾乃さんだめですよ!3枚投げ入れると石崎シェフと別れることになりますよ!」
「なにそれ?」
隣にいた智香に慌ててコイン投げを止められて、フラヴィオを見ると、彼はばれたか、と笑って舌を出した。
「コインは投げ入れる枚数によって叶う願いが違うんです。1枚だとまたローマに来れる、2枚だと大切な人とずっと一緒にいられる、そして3枚だと今のパートナーと別れられる、なんですって!」
「なんでそんな願い事を…」
綾乃はイタリア人の考えることがわからない、というように目を丸くする。
「離婚が禁止されてたキリスト教時代の名残なんですって。だからコイン3枚はだめです。綾乃さんは当然2枚ですよね。私にその残りのコイン1枚ください」
そう言って綾乃がフラヴィオからもらったコインを見て、智香は手を出した。
「2枚あげる。私は1枚でいいわ」
「え、なんですかそれ!だめですよ、2枚入れなくちゃ!」
隣で騒ぐ智香を無視して、綾乃は泉に背を向けるとポイッとコインを1枚投げた。
騒がしい周囲の音で、コインが泉に落ちた音は聞こえなかったが、見ていた智香によるとどうやらきちんと入ったようだ。
「またローマに来る、でいいんですかあ」
「いいのよ」
それならと智香は残された2枚のコインを手に持って泉に背を向けると、器用に投げ入れた。
「大切な人と一緒にいられるって、恋人に限定されないですもんね。私はコン・ブリオのメンバーが好きですよ!外部スタッフとはいえ、これからも一緒に色々作り上げたいですから」
満足そうに、それでいて少しだけ照れたように智香が綾乃に言った。綾乃もつられて笑顔になった。気の合う仲間とは、簡単に出会えると限らない。ここまで一緒に来られた仲間を大切にしたい気持ちは同じようにあったから。
そんなやり取りを見ていた哲也も微笑んで見守っていた。
「哲也はコイン投げないの?」
「テツヤはコッソリ3枚投げ入れていました~」
背後から再び現れたフラヴィオがそう言うと、綾乃は疑わしい視線を哲也に向ける。3枚ということは、別れを願っていることになる。
「勝手なことを言うなよ、フラヴィオ。俺はちゃんと2枚入れたよ」
2枚。大切な人とずっと一緒にいられるという願いを込めてくれたのだ。
それを聞いて綾乃は安心する。
「綾乃はローマが気に入ったみたいだな」
コインを1枚だけ投げ入れたことを見ていた哲也が綾乃に聞いた。
当初の計画時点では、イタリアのあちこちに行きたいと言っていた綾乃だったが、結局スケジュールの都合でローマを拠点とした旅となったのだ。それでも、トスカーナにもナポリにも行けたのは嬉しかったし、ローマの見どころをチェックするには時間が足りないくらい、まだまだローマは魅力で溢れていた。
そんなローマを綾乃が気に入ってくれたようでよかった、というように哲也は温かい眼差しを向けた。
「うん、まあ。」
綾乃はそれに対してつぶやくように返事をする。
コインを1枚だけ投げ入れた理由は、もう一つあったのだ。確かにローマは素敵なところで、また訪れたい場所になった。けれど、今度は哲也と二人でローマに来たい、と願いを込めたのだった。
言葉にはしなかったけれど。