イケメンシェフの溺愛レシピ

俺の妻になにか?

「綾乃さん、アペリティーヴォしに行きましょっ!残り僅かなローマの時間、グルメをチェックしないと!」

観光地から戻ってベッドに倒れこんだ綾乃を智香は無理やり起き上がらせる。
これが若さか。そう思いながら重力にどうにか抗うように綾乃は体を起こす。
通訳連れていきましょ~と智香がフラヴィオを呼びに行こうとしたところで、哲也が現れた。

「俺たちは少し知人と会う約束があるんだ。後で紹介するけど、仕事の話もあるから申し訳ないけど2,3時間後に合流でいいかな?この辺りは近場にいろいろいい店があるから」

夕食前に軽くお酒を楽しむくらいのことは、たいしたことではない。
綾乃はすかさず、大丈夫と返事をして哲也とフラヴィオに背中を向けた。
仕事の話。
そう言われると、それ以上何も言えない。もっとも、この騒がしい集団に囲まれて、二人だけでディナーに出掛ける気分にもなれない。

「ま、ローマですしね。それなりに英語も通じるでしょう!南部ほど治安も悪くないでしょうし」

そう言って、智香に引っ張られるようにホテルを出て街を歩いた。
観光地とだけあり、日本人らしきグループなど、いろんな国の人の姿があった。
赤いテントを半分垂らしているバールがふと綾乃の目に入る。ちょうどテラスに座る客にドリンクを持ってきたスタッフの若い男の子と視線が合うと、座る?というように口を動かして、指先でテーブル席を指さした。
それなら、と思い智香に声をかけて二人で席に座った。
英語で書かれたメニューを順番に指をさして見せると、彼は最後に綾乃に何かを言ってパチンとウインクをして見せた。
楽しんでとか、何かあれば言って、というようなものと思われるが、それを見た智香がニヤニヤと笑った。

「なに、その顔」
「いや~石崎シェフが見てたら嫉妬しちゃうなあって」
「接客してくれただけじゃない。」
「どうでしょうね、ふふふ」

接客してくれる男性を見ただけで何かを想像できる智香がすごい、とすら綾乃は思いながらメニューをぱらりと裏返す。
どうやらもう片面はイタリア語で同じメニューが書かれているようだ。日本人にとってはやはりイタリア語より英語のほうがわかりやすい。なるほど、気が利く青年のようだ。

夕焼けみたいな色のアペロールを2つ、オリーブと生ハムとともにもらって、ローマの街並みをしばし眺めた。
智香は熱心に写真を撮ったり、料理を見ながらノートにメモしたりしている。
こうしているとロケで海外に来たみたいだった。それでもこうして日常を離れて、新しい景色を見て、その空気を胸いっぱい吸えることに喜びはある。

映像で見ただけのナポリの海沿いの街もピッツァも、ルネサンス時代を受け継ぐ香り高いフィレンツェも、実際に感じるのはとても意味のあることだと思えた。

現地のイタリア料理の味も、コン・ブリオで食べさせてもらうものとはやはり違う。水も空気も違うのだから食材も料理も変わる、と哲也は言った。加えて、コン・ブリオの料理は日本人に食べやすいように工夫がしてあるとも教えてくれた。
そういう違いもすべてが貴重な学びだった。綾乃だけでなく、この研修旅行に参加した者、すべてにとってプラスになることばかりだろう。
それでも綾乃のこの心の虚しさは、と思ったその時、テーブルに一つの皿を置かれた。先ほどのスタッフの青年だった。小さめのオーバルには細長いグリッシーニが数本並んでいて、綾乃がどういうことかと聞こうとすると、彼はサービス、と英語で言って再びウインクをした。
その様子を見ていた智香がまたニヤニヤと横から視線を送る。

「綾乃さん、餌付けされやすいタイプですねえ」
「餌付けって!イタリア人ってサービス精神旺盛みたいだし、余ってたやつ出してくれただけでしょ」
「いやいや、ウインク付きですよ。ああ、動画撮っておけばよかった!それで石崎シェフに見せて、一波乱あったらおもしろいのに」
「…智香、昼ドラの脚本家にでもなるつもり?」

呆れたような顔をした綾乃に智香は頬を膨らませた。

「そんなつもりないですよっ。ただ、楽しいなあって。二人が結婚してから。綾乃さんも、石崎シェフも、こんな顔するんだとか、こんなふうに嫉妬したり、困ったり、感情をむき出しにするんだとか、興味深いですよ。仕事してる姿からは想像できなかった!そう思ったら私っていいもの見れてるなあって」

そう言うと、智香はまたニヤニヤした。
智香のその言葉は、綾乃にとっても興味深かった。
自分たちが他の人からそんなふうに見えているのだと思ったら。
態度に出やすい自分はともかく、哲也も変化があったように見えているなら、ちょっとだけ光栄だった。同じように彼の心を動かせているのなら、と。
決して若くない、立派な大人になった今、いろいろ経験して、ちょっとやそっとじゃ動じないくらいに成長した今、自分が彼のハートを揺さぶれるくらいの存在に慣れているのなら。
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