イケメンシェフの溺愛レシピ

永遠のキス

翌日はもうローマをゆっくり楽しめる最後の一日だった。次の日のフライトでローマから東京へ発つ。店舗改装の期間は2週間ほどと言えど、さまざまな雑務も多くて結局旅行できたのはその半分ちょっと。それでもこうしてイタリア旅行ができたことは、ありがたいことだ。
智香にたたき起こされた綾乃はホテル1階のバールでカプチーノと甘いクロワッサンを口に入れる。こんな朝食はこれが最後だろう。明日の朝はおそらく空港へ向かう準備などでゆっくりできないだろうし、明後日にはもう東京だ。
だからそう、今日はローマ最後の夜だ。

少しぬるくなったカプチーノの泡を口に含むと、正面から哲也がやって来た。

「よく眠れたかい?」
「ええ」

いつもそうするように、まるで日本にいるときと変わらない調子で会話をした。

「今日、二人で出かけないか」

もともと今日は各自フリーの予定でいた。お土産を買ったり、後悔のないように食べ歩いたりと、各々が自分の体調と合わせて予定をたてていたところだった。

「どこへ行くの?」
「オルヴィエート」

綾乃は思いがけない地名を聞いて拍子抜けする。哲也は何かを企んでいるような、それともただいつものように微笑むような、そんな顔をしていた。

ローマから電車で1時間ちょっとの都市、オルヴィエート。
駅につくとちょうどランチタイムに良い時間ということもあり、哲也は詳しいのかすぐに近くのトラットリアのドアを開けた。リストランテよりもカジュアルなトラットリアは堅苦しい会話なしに、すぐに座らせてくれて、食事とワインを出してくれた。

「おいしい~!」
「喜んでもらえてよかった」

ローストポークも、生ハムもダイレクトにおいしさを訴えてくる絶品だ。それに合うワインも。トリュフも有名な地らしく、黒いトリュフを使ったパスタも食べさせてもらった。
哲也は店員とワインボトルを指さしながら話をしている。どこで手に入れられるのかとか、そんな話だろうか。
それにしてもこんな気軽なお店でランチからこれだけのものが楽しめるなんて、と綾乃はもう一度しっかり味わうように切り分けた肉を口に入れた。

「これが目的だったの?」

調べてみたところ、オルヴィエートは美食の街としても名高いようだ。恥ずかしながら、綾乃はあまり…いや、ほとんど詳しくなかった。イタリアの都市やその料理については、少しずつ知識が増えていたつもりだったが、まだまだ知らないことが多かったことに気づかされる。
哲也と出会って、世界はぐんと広がった。
もともとテレビ番組を作るという仕事柄、広く浅く、ちょっとしたことは知っているつもりでいたが、食べ物やイタリアのことに関しては、ここ最近、かなり深まったように思っていた。
でもまだまだ、もっとだ。きっとこんなふうに、これからもまだまだ素敵なものを見つけていくのだろう。
そんな胸の内を知ってか知らずか、哲也はにこやかに言った。

「まあね」

そのときだった。すると、入り口から一人の女性が入って来た。見覚えのある栗色のセミロングヘア。少しだけクセのある毛先。

「あ」

綾乃はつい声をあげた。
そこにはローザと紹介された昨日の女性がいたからだ。彼女は哲也に挨拶をすると綾乃にも微笑んでイタリア語で話しかけてくれた。
当然綾乃は何を言っているかわからず、なんとなく笑顔で返す。
彼女も彼女はよろしくねというように微笑んだ。
どうして彼女がここにいるのだろう。
そう聞きたい綾乃の気持ちをわかりきっている哲也が言った。

「彼女の実家はワイナリーを経営していてね。今飲んだワインも彼女の家のもの。うちでも取り扱っているんだけど、せっかくだから他にも色々欲しいなと思ってさ。昨日も彼女から資料を持ってきてもらっていたんだけど、せっかくだからオルヴィエートまで来てもいいなと。この店もローザの親戚というか、一族が経営しているお店なんだよ」

イタリアは家族経営が多いと聞いていたので、そうなんだ、と綾乃が驚きと納得の表情を見せると、ローザは目じりを下げて優しく笑った。それからイタリア語でまた何かを言った。何を言ったのだろう、と思った綾乃の気持ちを汲み取って哲也が言った。

「少し車で走った先に系列のリストランテがあるから、またゆっくりディナーをしに来て欲しい。いつでも待っている、って」

そう言ってローザは綾乃の手を握って笑顔をみせた。その手も笑顔も、とても温かかった。
本当にまた来てね、と言ってくれているのがわかった。また会おうと心から望んでくれているのだ。
そのとき、一瞬でも、自分の知らない時代の哲也を知る彼女に嫉妬した自分が恥ずかしくなった。

でもこうしてまた会えて、哲也と二人でおいしいものを食べることができて、心の中はすっきりと晴れ渡った気がした。
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