イケメンシェフの溺愛レシピ
「忙しいところ悪いね」

席についてパソコンを立ち上げていると、哲也がコーヒーカップを2つ、それから小さな焼き菓子をトレーにのせて持ってきてくれた。
そして綾乃の斜め横に着座したので、綾乃は言った。

「こっちのセリフよ。昼食、まだ終わってないんじゃないの?休憩が終わってからでいいわ。ゆっくり食事してきて」
「つれないこと言うなあ。一分一秒でもきみのそばにいたいっていうのに」

甘い顔つきで、でもどこかからかっているようにも見える笑顔で哲也は言った。
綾乃は思わず赤面する。それと同時にその言葉が周囲に聞かれていないか心配になる。
もっとも、コン・ブリオのスタッフたちは二人の仲に気づいているようであったが、深入りすることもなく、ただただ温かく見守ってくれているだけだった。
そうはいっても職場で、周囲に仕事の人たちがいる状況であれば、やはり仕事の雰囲気は壊したくない。それでも、自分のところにすぐに来てくれたことは綾乃も嬉しかった。忙しい彼をいつだって独り占めしたい気持ちはある。

「で、話したいのは企画書の件だけ?」

資料をぱらりとめくって確認しながら哲也が言った。

「もちろんよ。仕事の件で来ているんだもの」

気になることは、もちろんあった。しかもその対象はすぐ反対側のフロアにいる。態度に出したつもりはないのだが、哲也に気づかれてしまったのだろうか。
と、その瞬間だった。

「んっ…!」

綾乃の口に哲也が柔らかいクッキーのようなものを詰め込んだ。
反射的にそれを受け入れて咀嚼すると、中からは甘いチョコレートの味がした。

「おいしい。何、これ?」
「バーチ・ディ・ダーマっていうトリノのお菓子さ。」
「バーチ…?」
「貴婦人のキスっていう意味。キスマークに形が似ているっていうのが由来なんだよ」

そう言われて差し出された焼き菓子は、コロンとした小さなクッキーを二つ重ねた形をしていた。確かにキスマークのような形と言われればそう見えなくもない。

「食べさせて?」

まじまじとそれを観察していた綾乃に、哲也が言った。

「えっ?」
「貴婦人のキス。綾乃から欲しいなあ」

いやらしいほど、甘い微笑み。巧妙な下心、とでもいおうか。
綾乃はつい顔を赤らめる。キスをしてくれ、と言われたわけじゃないのに。
口に焼き菓子を放り込む程度のことは、たいしたことじゃないはずなのに。
まるでキスをせがまれているみたいに恥ずかしく感じてしまうのは、他でもない哲也のせいだ。

「ほら、はやく」

哲也に催促される。綾乃が迷っていると反対側のホールから椅子を引いてスタッフたちが立ち上がる音が聞こえた。
休憩時間が終わるのだ。立ち上がってしまえば死角になっているはずのこちらの様子も見えるかもしれない。
綾乃は半ばヤケクソでその焼き菓子を哲也の口に押し込んだ。

「…なんて色気のない」
「仕事中ですから!」

口をもごもごと動かしながら、哲也が呆れた顔をしていた。それでも綾乃はまだいきなりキスをした後のように動揺していた。

視界には、店を出ようとする園部さんの姿が入った。つややかな髪に紺色の上品なジャケット。パンツスタイルだけどパンプスのデザインがきれいでとても女らしい。
ごちそうさまでしたと声をかけて立ち去る彼女は、ちょっと見ただけでもわかるほどに完璧な女性だ。
打ち合わせだからと、ジーンズにスニーカーの自分が哲也の隣にいるのが申し訳なくなる。

「次にゆっくりキスをできるのはいつ?」

貴婦人のキスを食べ終えた哲也は書類に視線を向けながら言った。傍から見れば打合せをしているように見えるだろう。次のデートの約束をしているなんて、誰が想像するだろう。

「来週の水曜日の夜。木曜は、定休日でしょう?私も午後出社にしてあるから」

綾乃はまだちょっと顔を赤らめたまま、ぽつりと言う。いつもの元気ある女ディレクターの姿はそこにない。そこいるのは、ただの女。ちょっとレディになり損ねた不器用な大人の女だけど。もう戻れない、と思う。哲也に対して、女の気持ちを持たない自分には戻れない、と。

「OK。ディナーをきみの家にデリバリーして、ゆっくり過ごそう」

こんなにきちんと特別扱いしてくれるのに、これ以上ワガママを言ったら罰があたる。努力しよう。そう、努力すべきだ。

「家を掃除して、落ちないリップをつけて待っているわ」
「いいね、楽しみだ」

にこやかな哲也に釣り合うように、綾乃は笑顔をみせた。
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