朝を綴る詞
今日はとことんついていない。

いつも出勤前に、
音楽を聴きながら向かうのが
日課だというのにイヤホンを
忘れてきてしまった。

恐らく夜にジャケットからイヤホンを
取り出して忘れてしまったのだろう。



「最悪だ……」



はぁ……と本日2度目の溜息を溢す。

いつも少し早めに家を出て、
出勤時刻まで近場のカフェで
ゆっくりするのだが、
音楽がないと耳元が寂しくて仕方ない。

どうしようかと考えているうちに
職場の最寄駅に到着する。

今日は早めに会社へ向かって
ピッタリ定時で帰ってしまおう、
なんて考えて改札口を抜けた時。


ピアノの音が微かに聴こえた。


その音に釣られ歩みを進めると、
1人の少女が目に映った。

少し音を外していたり、
弾き方がとても上手いと
言えるわけではなかったけど、
踊るように鍵盤の上に指を走らせて、
楽しそうに歌を歌っている。

気がつけば、
足を止めて少女の歌を聴いていた。

ピアノの音色が完全に止んだ時、
振り返った少女と目が合う。

軽く会釈をし立ち去ろうとした時、
「あの!」と声を掛けられる。



「最後まで聴いてくださり、
ありがとうございました!」



嬉しそうな笑みを浮かべ、
お礼をわざわざ伝えてくれた。

生憎、少女の歌を聴いていたのは
自分1人だけだったらしい。

「歌声、綺麗でした」と伝えると
さらに嬉しそうな
まるで花が綻ぶように笑顔を輝かせて、
「私、歌手になりたいんです」と言った。

続けて、
「昔から独学ですが、
発声練習やピアノの練習、
他にも様々な練習をしてきました。
まだまだ未熟なのは分かっていますが、
それでも何度もこの時間から
弾き語りをしている中で
初めて聴いてくれた、
貴方が初めてのお客さんだったのです」
と興奮気味に話してくれた。

彼女が眩しいくらいの
キラキラとした笑顔で、
真っ直ぐな思いを夢を伝えてくれた時、
少しだけほんの少しだけ、
胸のあたりが騒ついた。



「いい夢ですね、応援してます」



それだけいうと会社へ向かって走り出した。

久しぶりに走ったせいか、
心臓の音が煩いくらい頭に響く。

息を整えながら、
先程の彼女の屈託のない笑顔を
思い浮かべる。



‘‘私、歌手になりたいんです’’



その言葉が心のどこかに
引っ掛かって取れない。

……いや、
そもそもあの少女と会うこともきっとない。

いつかきっと
この引っ掛かりも取れるはずと信じて。


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