弊社の副社長に口説かれています
「──うん、ごめん、ちょっと、考えさせてほしい」
『お姉ちゃん、助けてよ』

悲痛な声がする、それは余計に陽葵の心の傷を広げる──陽葵の声は誰が聞いてくれただろう、陽葵が助けを求めて差し伸べた手は誰が取ってくれただろう。

「うん、ごめん、少しだけ──」
『少しって? 私、あとどれくらい待てばいい?』
「うん──」

声は声にならなかった。

「ごめん、また電話する……一旦切るね」

考えをまとめようと史絵瑠の返事は聞かずに通話を切った。だがすぐに電話が鳴り始める、しかし今は話などできないと無視をしてしまう、目いっぱいまで鳴り続けたそれがようやく静かになった。

父が義妹を──嘘だと思いたい。だが史絵瑠の様子からは、大げさなところがあるにしても嘘を言っていたようには感じなかった。

(──まさかだけど)

母を失ってからの再婚はとても早かったように思う、それはまさか、最初から史絵瑠が目的だったなんてことはあるのかと疑惑が芽生える。幼児趣味からの再婚──娘という立場を隠れ蓑に愛らしい女の子を蹂躙できるとでも考えたか──陽葵は恐ろしい思考を頭を振って追い出す。

だが、その史絵瑠を逃がすまいと10万もの大金を示して出て行くことを阻止しているとするならば納得できてしまう。それは愛なのだろうか、それならば新奈とは離婚し、史絵瑠と再婚すればよいのにと思ったが、史絵瑠には父親以上の愛情など必要ないから逃げたいと思っているのだと思えばため息が出てしまう。

(史絵瑠が、私に助けを求めている──)

電話が再度鳴り始める、必要以上に驚き画面に出た文字を見て「ひ」と声が出た、『Diana』だ。

「今は、待って……!」

慌てて鞄に押し込み耳を塞いだ、今はまだ結論と勇気が出ない──史絵瑠を受け入れる心の準備が整わない。
喉が妙な音を立て始め、息苦しく空気が吸えなくなる。

(……死……)

一瞬にして過ぎった、今、死んだら楽になるだろうと思えた、顔を手で覆いその時を待ってみる。だがその時、耳の奥に尚登の声が聞こえた気がした──過呼吸か、と呟く声だ。

(落ち着いて……ゆっくり吐いて……)

昨日の尚登の声を思い出した、背中を撫でながら行う呼吸を思い出した、髪に優しくかかる吐息を思い出しながら息を吐き出す。

(大丈夫……大丈夫……)

数十秒をかけてようやく生きた心地が戻る、今朝掛けられた優しい声音の言葉も思い出した。

(具合はよくなりましたか──)

大きく深呼吸してから、「はい」と答えていた。

都内の駅の改札を前に立つ史絵瑠は、『応答なし』の文字が並ぶスマートフォンの画面を見つめため息を吐く。

「……さすがにちょっとやり過ぎたかな」

ふふんと微笑んだ、通信アプリの名前すらフルネームの『藤田陽葵』であることに陽葵の真面目さが伺えて史絵瑠にはつまらない女だとしか思えない。
時計を確認する、もう間もなく18時になろうとしている。

(まだ時間あるな、もう一回くらい掛けるか)

受話器のマークをタップした時、

「リマちゃーん、お待たせー」

男の声に、史絵瑠はとびきりの笑顔を向けた。先日陽葵が目黒で会ったのとは違う男が手を振りながら近づいて来る。

「中谷さーんっ、リマ、いっぱい待ったー!」

甘えた声で言い、すぐさま腕に抱き着いた。男は目じりも口の端もだらけさせ喜ぶ。

「僕も頑張って早く来たんだけどなあ、リマちゃんの僕に会いたい気持ちには敵わないあ」

史絵瑠は嬉しそうにえへへと笑ってから、ちょっと待ってと断り発信していた電話を切った。

「あれ、お話し中だった?」
「ううん、掛けても出ないからいいの」
「もしかして次のお客さんかな。連絡つかないってキャンセル? なら僕が次の分も買おうか?」

中谷は常連だ、史絵瑠の仕事はよく知っている。

「違うわ、お友達。中谷さんの後は入れてないもん、門限があるから遅い時間までは会えないの、中谷さんも知ってるでしょ」

史絵瑠は中谷の腕に頬をこすりつけて言う。正確にはきちっとした門限があるわけではない、だが帰宅が20時、21時となれば、父の京助がいい顔をしないのだ。それを無視はせず面倒だと思うだけで従うくらいの人としての常識は持っていた。

「そうだよねえ、だから今日もご飯だけって約束だ。でもさあ、前戯なしでちゃちゃっと終わらせてよければホテル行こうか? 代金はその分出すし、同じ一時間でもそのほうがよくない?」

鼻息も荒く言われ、史絵瑠は微笑んだ。

「私からサービスはなしよ?」

史絵瑠の提案に中谷は何度も頷き肯定する、そしてすでに選んでいたかのようにこっちだとホテルへ向かって歩き出した。そもそも六本木を待ち合わせ場所にしてきたのは中谷だ、きっと地の利があるのだろう。史絵瑠は体を摺り寄せたまま素直について行く。
1時間ほど男の好きにさせれば金が手に入るなど楽な仕事だ、食事だけなら1万円程度だが、体を差し出せば3万円以上もらえる──パパ活などと呼ばれる仕事で金を稼いでいるが、それに後ろめたさはなかった。むしろ自分が持つ武器を最大限に利用している自負がある。年齢と学校名のネームバリューに目の色を変える男の多さだ。

お金はいくらあっても困らない、むしろあればあるほどもっと欲しくなる。だがまだ学生なら勉学に励めとうるさい京助のせいで稼ぐ時間が限られているのだ。口うるさい京助がいなければ、もう1件くらい増やせるのに──定期契約は敢えて結んでいなかった、より多くの男と会う方が史絵瑠には性に合っていた。
一人でも多くの男に会うために親元から離れたいが今更その口実もなく、そんな時に陽葵に出会い一瞬にして利用してやろうと思った自分は天才だと思った。

明日、また電話をしよう──せめて住所を聞き出せればなんとでもなる。
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