弊社の副社長に口説かれています
4.副社長からの呼び出し
水曜日、会社の正面玄関に尚登は颯爽と入ってくる。他の社員には笑顔で挨拶をしていた警備員が会釈もつけて挨拶するのには、尚登は手を上げ応えた。
受付内で準備を始めていた受付嬢のふたりが尚登に気づきすぐさま立ち上がる。
「副社長、おはようございます」
深々と頭を下げて挨拶をした。他の社員では言葉すら発しないが、それを気にする者はいない。
「おはよう」
返事をし、人でごったがえすエレベーターホールへ向かう、さっさとフレックスタイム制を導入すればいいのにと思うが、昭和の思考の父たちには通用しないようだ。かく言う役付きである自分はもう少し遅い出社を勧められている、秘書たちの仕事が9時に始まることを考慮してだが、尚登は構わず出社しているのは副社長としての自覚が薄いからだ。
エレベーターは上層階、低層階へ行くもので分かれている、尚登が行くべき副社長の執務室があるのは最上階の30階だ、その列の最後尾に並んだ。
「おはようございます」
女性社員たちが上目遣いに媚びた挨拶をしていく、尚登は上品な笑顔を見せてそれに応える、その時前方に陽葵を見つけた。
(お、あの子だ)
俯いた横顔に釘付けになった、ポン、と明るい電子音がしてエレベーターの到着を知らせると陽葵は顔を上げてそれを確認する──その横顔に胸騒ぎがした、日曜日に見た血の気のない顔そのものだった。
(──またなんかあったのか)
月曜日は元気そうだったのに──声をかけようとする前に、陽葵は生気を失った顔のままエレベーターに乗り込んでしまう。たまたまそう見えただけか──そんなはずはない、自宅まで送った時に見せた笑顔が本物だと、妙な確信があった。
思わず腕時計を確認する、8時45分だ、いつもこの時間に出社しているのだろうか。
次のかごが到着し、尚登に気が付いた者が先に乗るよう勧めるのは役職と一番上層階へ行くこともあってだ、確かにそれが一番スムーズなのだと尚登は素直にエレベーターに乗り込む。
(上層階行き──)
15階から30階は本社の業務を担当する階だ。下層階は事業本部などが入り、さらに下層の1階から5階はテナントとして貸し出している。
(──本社の経理か)
陽葵のことを考えながら乗っていると、今日はとびきり到着が遅く感じた。30階に着いたのは尚登一人だ、降りてまっすぐ自分の執務室へ向かえば、ドアが開け放たれた中で秘書の山本敦が尚登の机で書類の整理をしていた。
「おはようございます」
笑顔で出迎える、だがそれがすぐに不思議そうに傾いた。
「どうしました?」
「……うーん」
尚登はジャケットをコート掛けにかけ、重厚な椅子を引いて深々と座るとひじ掛けに頬杖をして考え込む。
「悩み事ですか?」
そういう変化に気づけるところが、さすがだと尚登は思う。副社長の職に就いて初めは女性の秘書をつけてもらったが、どうにも落ち着かないのは女の若さだけではない。あからさまに色仕掛けをされては嬉しいよりも怒りが増した。その日のうちに交代を頼むこと繰り返し1週間、いずれもまともな女ではなく、こんな状態で働けるかとボイコットをすればようやく来たのが山本だった。尚登より年上の35歳で、執行役員や経営責任者の秘書を長く務めた経験は伊達ではなかった。実によく気が付き、細やかに動いてくれる。
「愛しい人に会えませんでしたか」
言われて尚登はむっとする。
「なんで山本さんが知ってんだよ」
月曜日に陽葵に会った時には山本はいなかったが──言えば山本はふふんと笑う。
「社長にしつこく聞かれました、副社長が声をかけた女性のことを何か知らないかと」
尚登は舌打ちで応える。
「存じ上げませんとお答えしています、でも所属や名前や愛称くらい聞いていないのかと食い下がられ困りました。そんなそんな、私などが副社長からプライベートな相談など受けるはずがありませんとお答えしておきました」
「あのなあ、山本さん」
プライベートかどうかは別として、愚痴や文句は散々話している、それなりにフランクな関係だからこその山本の嫌味だと判る。
「でも本当にそんな女性がいたとは意外です」
「挨拶したくらいでそんなこと言われたくねえ」
「おや、ご自分がどれだけの存在かご存じでそのような謙遜を」
トントンと書類を揃えながらの笑顔で嫌味に、尚登はけっと毒気づく。
判っている、世界的に支店や支社も持つ大企業と呼ばれてしまう会社の一族の跡取りだ。父で4代目、今どき家族経営などと思うが、すっかり親が敷いたレールに乗り今や副社長と呼ばれる座に就いてしまっている。外観しかりだ、良くも悪くも目立つのは事実で、子供のころからもてはやされた。
容姿も家柄も人々を魅了してしまう、告白された回数も数えきれない。それが嫌でせめて家庭の呪縛から逃れたいとアメリカ行きを決めた。アメリカで暮らした10年余りは何のしがらみもなく、のびのびとできて一番楽しい時間だったが──思わずため息が漏れた時。
「社長も気にかけていらっしゃいましたし、社内の人なら素性は確かなことあるので一番喜ぶお相手じゃないでしょうか」
それには尚登はふむと応える、その通りだ。
「気になっているお相手がいることくらい匂わせるのはいいと思いますけどね、そうしたら落合課長も落ち着くでしょうし」
出た名前に尚登はムッとしてしまう。
秘書課の課長だ。かつては尚登の母とは父を巡っての恋敵だったと聞いている。だからなのか、年齢的に自身を売り込むことはできないと言うのだろう、尚登の就任時に女性秘書を送り込み、現在は毎週のようにある見合い相手も仲介しているというのだから面倒この上ない相手だ。
「──まあ確かになぁ……」
ため息交じりに答えた。毎回会いたくもない相手にお付き合いはできないと断るのも疲れる上、会社にいれば用もないのに落合が顔を見に来るのもいけ好かない。
「──ふむ」
頬杖をついた手で頬を叩き、思案を始める。