弊社の副社長に口説かれています



木曜日になった。史絵瑠の電話は連日続いているが、陽葵は未だに答えを出せずにいる。
史絵瑠はしびれを切らし、日ごとに言葉が荒くなっていく。それでも陽葵がうんとは言えないのは、もし史絵瑠を受け入れてしまったら親がどういう反応をするのか判らないという恐怖がつきまとうからだ。
長く連絡を絶っていた、しかし史絵瑠と住むことになれば関りを持たざるを得ないだろう。もう小さな子供ではない、殴り言うことを聞かせようとするようなことはないだろうが、ではどんな仕打ちを受けるのか──あるいは、史絵瑠のようになにもかも忘れて普通の家族のように接するのか。それすらおぞましく感じて、完全に思考が停止してしまう。

一緒には住みたくないとはっきりと言えないまま史絵瑠と会話をしていると、どこで働いているのだ、住所は、住まいの最寄り駅はどこだなどとプライベートな質問までされてしまい、それから逃れるようにいくつかの案は示してみた。
引っ越し資金は貸すから京助から逃れるためにとにもかくにも家を出て、それからゆっくり考えよう、とか。虐待を受けている女性を匿う団体、施設を頼ってみたらどうか、など。しかし史絵瑠の結論は陽葵と暮らしたいということで決まっているようだった──しかし、なぜ自分なんかと──親しそうにしていた男もいた、その人を頼ればよいのではないか。

はあ、とため息が漏れた。

「陽葵ちゃん、大丈夫?」

三宅が心配して声をかける、もとより陽葵はおとなしいタイプだが輪にかけて静かな上、ずっと顔色も悪いことは気づいている。

「朝礼、終わったよ」

いつのまに、と思わずあたりを見回した。部署だけ行うもので、今日の休みは誰などいった連絡事項を伝える程度だ。いつも取り仕切る経理部の部長はおらず経理課の課長の川口が代行していたがそれついての報告はなく、今日も元気に働きましょう、くらいで終わっていた。

「コーヒーでも買ってこようか? あ、気分転換に一緒に買いに行く?」

フロアに自販機やベンダーを置いたエリアがある、ちょっとした休憩スペースになっているそこへの誘いを断り、椅子に座ると業務を始める。
パソコンでの伝票の入力だ、その時画面の下方にチャット形式の社内メールの受信を知らせが出た。あまり使われることがないそれを、なんだろうとクリックすればメッセージが現れる。

【高見沢尚登です】

そんな文言に背筋が伸びた。

(え、なんで副社長が私の社員ID知って……っ!?)

それ自体は調べれば簡単に判ることだがなぜわざわざ調べたのかが判らない、陽葵は全身から熱い汗が噴き出す感覚に陥る。

【おはようございます、藤田です。お疲れ様です】

すぐに返信した、心臓がドクドクと動き始め、指先も震え出す。

【おはようございます】【今朝、姿をお見掛けしましたが、具合が悪そうですね】

(え、いつ!?)

声になってしまいそうになるのを堪えた。今朝ならばエレベーターホールでだろう。

【ご心配おかけしてます、すみません、ちょっと寝不足です】

それは事実だ、史絵瑠のことで眠れない──それ以上に悩み事で吐きそうになっているが、それは言えない。

【もしかして、妹さんの件ですか?】

ああそうか、尚登は知っているのだと安堵しつつも緊張は解けない。

【ええ、まあ】

濁す返信をしようとしたが。

【話を聞きましょう。今日、一緒に食事をどうでしょう】

すぐさま提案され、陽葵は戸惑う。

(ええ……っ、副社長とご飯……!? 無理無理、心臓、破裂しちゃう! それに副社長に相談なんかできない……我が家の恥をしゃべるなんてありえない……っ)

陽葵はきゅっと唇を噛み締めてから返信する。

【お気遣いはありがとうございます。でも大丈夫です】
【そう言わずに。先日は話したら少し楽になったんじゃないんですか?】

確かに──尚登の優しい声と態度を思い出し、わずかに心がぐらついた時。

「藤田さん」

いなかったはずの経理部の部長に声をかけられた、今どこからか戻ってきたようだ、慌てて戻ったのかわずかに息が上がっている。陽葵の傍らにしゃがみこみ、見上げて声をかけた。

「具合悪そうだけど、大丈夫? 有休あるでしょ、休んでいいよ」

心配そうな声に陽葵は申し訳なく思った、いろんな人に心配をかけている──陽葵は精一杯の笑顔を作って答えた。

「ご心配かけて申し訳ありません、ちょっと寝不足で……あの、ゲームにハマってしまって」
「なんだぁ」

陽葵の嘘を部長は素直に受け入れた。

「ゲームもストレス発散だからダメとは言わないけど、ほどほどにね! 寝不足はお肌の大敵だし!」

言うと、隣に座る三宅さんがすぐに「それ、セクハラですよー」などと声を上げる、部長は今はなんでもかんでもセクハラだななどと文句を言いながら立ち上がる。寝不足が肌に悪いのは一理はあると、陽葵は素直に詫び、そして礼を述べれば、部長はうんうん、邪魔したねと返し自分の席に戻っていった。

チャットの途中だった──再度画面を見れば、既に尚登から店の場所が記されたメッセージが来ている。

【セントラルホテル、『朱竜宝園』に18:30。直接お店にお願いします。予約名は高見沢です。お待ちしてます】

ひえっ、と内心声が出た、もう断わることなどできない──しかもランチではなくディナーだ、さらに五つ星ホテルの中華などいくらするのか……銀行に寄ってから馳せ参じなければ。
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