弊社の副社長に口説かれています



終業は17:30だ。会社を出るとまず銀行に行き、念のため3万円を下した。調べればディナーの料金は14,000円から18,000円とあった、半月分の食費が一回の食事で吹き飛ぶなどありえないと泣きたいが今更断ることもできない。銀行に寄ってもまだ待ち合わせには早かった、一旦帰宅し着替えることにした。高級レストランで副社長との食事である、恥ずかしくない恰好は必要だと思った。今年新調したスーツなら少しはよく見えるだろうか。髪を梳かし、普段しない化粧もし──もっともマスカラと、いつもより濃い目の色の口紅を引いただけだ。
そしてセントラルホテルへ向かう。みなとみらい地区にあるホテルだ、その最上階にある中華レストランへ──会社よりも豪華で静かなエレベーターに乗り込めば異次元に来た感覚だ。高級感しかない廊下を行くと重厚なレストランの入り口が迫ってくる。姿を見かけたボーイがすぐさま最敬礼で陽葵を迎えた。

「いらっしゃいませ」
「あの、予約しています、高見沢、です」

敬称まで付けようと思ってやめた、さすがにおかしいのは判る。

「お待ちしておりました、お連れ様は既にご到着です」
「えっ」

早いと思った、自分も指定された時間より早く来たつもりだったのに、すでに過ぎてしまったかと焦るが鞄に入れたスマートフォンを出して時刻を確認する余裕はなかった。
案内されたのは個室だった。丸テーブルには二人分のテーブルウェアが並んでいるのが見えた、二人きりということだ。

(そうか身の上相談だから二人きりで……えっ副社長と個室で二人きり!?)

事実に気が付き動転してしまう、足がもつれそうになった。

「尚登様、お連れ様がお見えです」
「ああ、いらっしゃい」

奥から声に、陽葵は最敬礼で頭を下げた。

「遅くなりました!」

途端に尚登は笑い出す。

「全然だよ、まだ10分もある」

どうぞと席を勧めてくれる、その椅子をボーイも引いた。だがそこはドアから離れた上座になる場所である、陽葵でもその程度の常識はある、副社長を差し置き上座に座るなど──出入口でもじもじしていると。

「どうぞ」

尚登に勧められ、陽葵は諦めた。

「失礼します!」

右手と右足が一緒に出る感覚で歩みを進める。

(嘘でしょ、副社長と二人きりって……私、死ぬんじゃなかろうか)

そうなればいっそ楽かもしれない──そんな悲観的なことを思ったが、椅子の前に立ちひざを折ればボーイがきちんと椅子を押し込んでくれほっとする、無事に座ることができた。

「飲み物はビールでいい? 俺が飲みたいだけなんだけど」
「はい! 構いません!」
「じゃあビール二つと、で、もう食事を始めてもらっていいですか?」
「かしこまりました」

ボーイはにこやかに言いドアを静かに閉めて出て行く。
途端に静かになった気がした、いや微かにBGMは流れている、それはクラッシックだった。

「今朝と服が違う、着替えてきたんだ」

そんな言葉に、本当に今朝姿を見かけたのだと判った。

「はい、セントラルホテルと聞いて、ドレスコードが気になったので」

陽葵が答えれば、尚登は微笑み答える。

「ビーサン、短パンじゃなければ大丈夫だ、この間はジーンズで来てる人もいたわ」

そうなんだとほっとした、むしろジーンズで来られる度胸に感心してしまう。

「昨日の朝も姿を見かけたんだよね」

尚登は静かに話し始めた。

「顔色が悪かった、そして今朝もだったからとりあえず部長を呼んで話を聞いてみたけど、君の具合が悪そうなことすら気づいてなかった」

それは部長に同情してしまう。

「部長はお忙しいですから私なんかに構ってられませんよ、それにもし気が付いて声をかけてもらっても、部長に話せることなんか……」
「確かに今回はプライベートなことだから話せないかもしれないが、もしこれが社内におけるイジメや嫌がらせや病気なんかがあった場合、気が付きませんでしたじゃ済まない」

厳しい声に背筋が伸びた、確かにその通りだ。

「いじめられている人のパフォーマンスは落ちる、それを見ている周りの人も。それは会社にとって損失だ。いじめている側だって、そのパワーを仕事に向けるべきだろ。いじめじゃなくても重大な病気で明日にも倒れる可能性だってある、発見が1日、1時間早いだけで助かる命もあるかもしれない。普段と様子が違う人を放置していてはいけない、上司は部下の観察がでなきゃ駄目だ、それができないのは由々しき事態だ」

それが尚登の哲学なのだと思った、この人が社長になったらわが社はもっといい方向へ行くだろうと感心した。

「だから目黒駅で私に声をかけてくれたんですね」

偶然同じ会社の者だったが、赤の他人でも明らかに様子がおかしい者を放っておけなかったのだ。

「まあ、純粋に気になったというのが一番だけどね」

そんなことを言ってにこりと微笑む、ここへ来て記憶にある副社長とは雰囲気が違うと感じた。

「で? 妹さんとは何が?」

それが本題だ、途端に陽葵の表情は強張る。どうしようか──陽葵は小さな深呼吸をし、語りたいことを整理する、全てを語る必要はない。
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