弊社の副社長に口説かれています
「どうしてそこまでして自分を犠牲にする?」

尚登はため息交じりに聞く、陽葵は笑顔で答えた。

「私はあの親から逃げました、史絵瑠も逃げたいんです」
「君は逃げたかったわけじゃない、追い出さたんだ」
「でもそれが結果的にはよかった、史絵瑠も逃がしてあげなくっちゃ」
「どうして──」

尚登はカラトリーを置いてまでため息を吐いた。

「俺には判らない、そういうのを『蝋燭(ろうそく)は身を減らして人を照らす』って言うんじゃね? 妹さんを受け入れれば、また痛い目に遭うかもしれないぞ」
「いいんです」

蝋燭は燃えて自分自身を小さくしながら辺りを明るく照らし出しやがてはなくなってしまう、自己犠牲を示したことわざだ。だが陽葵にそんなつもりはない。

「私は親から離れて楽になった、あの子も早く楽にしてあげたいです」
「もう子どもじゃないんだ、そこまで追い込まれてるなら自分で何とかできる。でもその場にとどまっているということは大丈夫だと言うことだ」
「子どものころからその環境にいると、逃げるという感覚がなくなるんです」

それが当たり前になってしまう──陽葵は尚登をまっすぐ見つめて答えた。

「その史絵瑠が助けてとSOSを上げたなら、私は迷うことなく助けてあげなきゃいけなかった」

尚登は面白くない──顔色も悪く悩んでいたのに、なぜその選択になるのか──。

「──聖人君子で立派だが。しょせんは赤の他人じゃねえの? そこまでの自己犠牲いる?」

陽葵はきゅっと唇を噛む、そんなことは言われなくても判っている。

「君、日曜日には妹さんに会ってしまったって泣いたんだぜ? そんな相手に?」

確かにその通りなのだが。

「そして昨日も今朝も死人みたいに真っ白な顔をして出社して。それって妹さんと暮らすなんて、死ぬほど嫌だからなんじゃねえの?」
「でも、一時(いっとき)です。私が助けて欲しいと伸ばした手は家族は誰も取ってくれなかった、とても悲しかったです、だからせっかく伸ばしてくれた史絵瑠の手は私が取ってあげたいです」
「君の手なら俺が取ってやる」

情熱的な言葉だったが、陽葵は気づけない。

「困っている妹を助けたいです」
「何に困ってんの? 金? それなら俺が払ってやるよ、さすがにずっと10万円給付はしてやらねえけど、君からってことにすればいい」
「そんなそんな、何言ってるんですか!」

少しだって副社長に借金などできないと大きな声で辞退する。

「大体一時で済むとは思えないね、きっと居座るぜ」

確かに一度招き入れたら最後な気はする──陽葵はごくりと息を呑んだ。

「そんな女、受け入れないほうがいい、君が壊れるのは確実だ」

──壊れる、陽葵は呟いていた。

「そんな危険を冒すくらいなら他に家でも探して当てがってやればいい、それにかかる一切の費用くらい俺が払ってやる」
「いえ、本当に、そこまでしていただく理由がありません!」

尚登の提案を陽葵は両手を振り拒絶する。なぜそこまでしてくれるのか──拾った子犬の世話感覚だろうかと勝手に想像した、しかし金銭感覚はおかしいだろう、赤の他人の引っ越しにかかる費用を負うなど──。

「別にいいけど、君のためなら」

と、尚登が最上級の笑みを見せた時、空気が震えた。

「──スマホ? 君だと思う」
「え、あ」

尚登はミュートにはしておらず、スラックスのポケットに入っているので着信はすぐに判る。陽葵のものは鞄に入っていた、上司との会食ということもありミュートにはしてあり、かかってきても出るつもりもなく──時間的も相手は想像できた、唇を噛んでしまう。

「妹さん? 出たら?」

陽葵の強張った表情からも判った、尚登が言うと陽葵は一旦は「いいえ」と断ったが、小さくうなずき鞄を開ける。ここで会話をする気はなくとりあえず静かにするため電源を落とそうとしたが、それを尚登は手を伸ばし奪い取った。

「え、ふくしゃちょ……!」

テーブルに置き、慣れた手付きで通話開始のボタンをスワイプするとスピーカーに切り替えた。

「副社長……!」

陽葵が大声をあげたが、尚登は優美な仕草で自身の口の前に指を立て、陽葵には手の平を向ける──一瞬陽葵はびくりとしてしまう、やはりそのような仕草はぶたれるのかと恐怖を覚えるのだ。静かにという意味だと判り、陽葵は従っていた。

『あ! お姉ちゃん!』

スピーカーから明るい声が響いた。

「シエルさん?」

尚登が問いかけたことに陽葵は驚いた、きちんと紹介した覚えはないが──会話には出ていたか。

『え? 男? 誰?』

途端に史絵瑠の声が棘を帯びる。

『なんで男がいるの? 姉はどこ?』
「少し席を外してます」

言いながら尚登はジャケットの内ポケットからボールペンを取り出した、そして陽葵に空いた手を差し出す。メモを寄越せという意味だと判り、コースターが紙製であることを見つけ、乗っているグラスをどかそうと伸ばしかけた手を掴まれた。
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