弊社の副社長に口説かれています
「え……っ」

驚いている間に、尚登はその手の甲にボールペンを走らせる。

「え、ちょっと……!」

書いてからまた指を口に当てる、一体なんだとわずかに怒りながらも見れば『なまえ』と書かれていた、史絵瑠は呼びかけていた、ならば自分だろうが苗字では呼ばれていたので下の名だと判じた。意味も判らないまま尚登からボールペンを奪い取り、仕返しだとばかりにその手を押さえ手の甲に『ひまり』と記す。

『そう。じゃあ折り返すよう頼んで』

史絵瑠の声はなおも刺々しい。

「ひまりに同居を迫っているそうですね」

いきなり名前呼びに口から心臓が出そうになる──驚きとともに嬉しさがこみあげたのが不思議だった。

『ええ、そうよ。それがなに?』
「すみせんが、お断りします」

はっきりとした拒絶に、今度は陽葵の心臓がバクバクし始めた──助けを求める史絵瑠の手を振りほどこうとしている、それはいいことなのか──。

『は? あんたに何の権利があって』
「悪いけど俺が一緒に住んでるんでね、諦めてくれ」
「ええ!?」

思わず大きな声を上げた陽葵を尚登はいたずらめいた目で見てにやりと笑い、自分の口の前に指を立てた──陽葵はこくこくと頷き口を手で塞ぐ。

「そうは広くない部屋に妹さんまで来たら狭くてしょうがないし、気ぃ遣うだろ」
『は? なに、あんた、彼氏なの? 姉からそんなこと聞いたことないんだけど』
「そうそう、彼氏。まだ秘密にしておきたいみたいなんだよね。君との同居も俺を盾に断ればいいじゃんって言うんだけど、俺との同棲は内緒にはしておきたいし、でもどうしても君を見捨てることができないようで、毎日めっちゃ悩んでて見てて可哀そうでさ。だから俺から断ろうと思って」
『あんたには関係ないでしょ』
「関係ないことねえだろ。優しいひまりに付け込むなよ。ひまりがどんな目に遭ってきたか知ってんだろ?」

ふふ、と史絵瑠は笑った、馬鹿にしたような笑いだと判る。

『知ってるわよ、パパもママも私のご機嫌取りに忙しいから、別に理由なんかなくても私が泣いて訴えれば、パパもママもすっごいいきおいで怒ってさ、面白かったーっ』

どくん、と心臓が跳ね上がった──「面白かった」、そんな言葉に体が冷えて行く──史絵瑠はわざと陽葵が嫌われるように仕向けていたのか──。

「──そんな生活が嫌で、ひまりは家族から距離を取ったんだ。そのひまりと住みたいと思う君の本心はなんだ?」
『あんたには関係ないでしょ、姉と話すわ。いないならまたかけるから』
「大ありだろ、俺の気が向けば一緒に住めるかもしれないんだぞ?」

史絵瑠は笑う、今度は自信ありげな笑い声だ。

『あんたに選ぶ権利があると思ってるの? いいわ、顔見せてよ、私が気に入ったら一緒に住んであげる』

すると画面に史絵瑠の画が映し出された、ビデオをオンにしたのだ。画面に映る自分の姿を見て前髪を整えている、顎を引いた様子から一番かわいく見える角度から撮っているのだろう。一目見れば自分を好きになる、そう思っているからこその提案だ。どんな男も陽葵よりも自分を選ぶ自信があるのだ──どうせ陽葵に恋人などいない、この度の電話も金で依頼されたのだろうくらいにしか思っていない。そんな男なら簡単にたぶらかせる。
背景からそこが史絵瑠の自室だと陽葵には判った、多少調度品は変わっているが、壁紙とタンスに見覚えがあった。

「何様だよ、てめえこそそんな権利があると思ってんのか、話にならねえな。切るぞ」
「え、ちょっと、待ってください!」

自分からは一言もなしなのかと、陽葵は思わず声を上げていた。

『お姉ちゃん』

陽葵の声が聞こえたのか史絵瑠の声がしたが、尚登は容赦なく通話を切ってしまう。

「え……っ! 副社長! なにを勝手に……!」
「あの女は辞めたほうがいい、ひまりが思う以上に性格悪いぞ」
「そんなこと……!」

たぶん、ある、などと思ってしまう。妹だからと庇いたい気持ちはあるが、陽葵が怒られる様を嬉しそうに見ていたのを思い出せば、そう思わざるを得ない。

「あんな奴をかばうことも助ける必要もねえ、口では姉だと言いながら姉だなんて思ってない」
「……でも妹なんです……その妹が傷つけられているのを見過ごすわけには……」
「だから何があったんだよ」
「それは……」

言わなくてはならないのか、父の罪を──そう思った時、陽葵のスマホが再度震える、画面に出た文字はもちろん『Diana(ダイアナ)』、史絵瑠だ。直後の電話などとはさきほどの話に納得がいってない証拠だ、勝手に通話を切ったことを怒っているのだろう。
どう対応しようか──悩んでいる隙に、尚登がスマートフォンに手を伸ばす。

「え、副社長……!」

陽葵が叫んだ瞬間、その口を尚登は手の平で、今度はしっかりと塞いだ。

尚登(なおと)って呼べよ」

顔を近づけ小さな声で言う、その意味を考えるよりも顔がきれいなことに見とれてしまい、尚登の手が触れていることなど気にならなかった。

「な、なんでですか……!」

何故名前で呼ばなくてはならないのかと、尚登の手の下でこもった声で訴えた。

「同棲してるって言ってるのに『副社長』はないだろ。あの女に俺の肩書きなんか知られたくないし」

確かに──若くして副社長だというだけで、社内の女たちすら盛り上がるのだ。もっとも世の中には若い社長も副社長も、探せばいくらでもいるだろうが──尚登が通話ボタンを押した途端だった。

『ちょっと、失礼にもほどがあるでしょ!』

史絵瑠の声が大きく響く。
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