弊社の副社長に口説かれています


母が不慮の事故で亡くなったのは、藤田陽葵(ふじた・ひまり)が小学5年生の時だった。
1年ほど経った頃、父・京助がテーマパークへ行こうと誘う。母を亡くしてからすっかり意気消沈していた京助が提案してくれたのが嬉しかった、京助も楽しそうにその日を待ちわびている様子なのがその気持ちに輪をかけた。

そして当日。ああ、そういうことかとすぐに判った。
現地で見知らぬ母子と落ち合ったのだ、間もなく義理の母と妹になる者たちだった。
母と出かける時より楽しそうにしている京助を見て、複雑ながらもほっとしたのを陽葵は覚えている。
きれいな女性だった、優しい笑顔が印象的で、こんな人が母になるのならいいなと単純にも思ったのだ。そしてその母によく似た娘も人形のような愛らしさで、こんな子が妹になったら自慢だと思ったことも覚えている。

だがその日はこれといった報告もなく、ただ1日楽しく過ごし互いの家に帰った。そして何度か食事や観光へ出かけることを繰り返し、いよいよ京助から結婚しようと思うと報告をされた時は、子どもながら「今更?」と陽葵はツッコミを入れたものだ。

母を失った悲しみを乗り越えるならいい、そう思い再婚を歓迎した。

しかし、幸せは長くは続かなかった──継母(はは)は暴力をふるう人だった。
初めは小突かれる程度だったが、平手が拳になり、回数が増え、蹴られるようにまでなり──一例を挙げればある日の夕方、陽葵が宿題をやっていると義妹(いもうと)がやってきて一緒にゲームをしようと誘ってきた。これが終わるまで待ってと言うと、義妹はふうんと言って部屋から出て行ったが、まもなく継母が怒鳴り込んできた。

史絵瑠(シエル)が遊んでと言っているのに遊んでやらないなんて、なんて意地悪なお姉ちゃんだ!」
「宿題をしているの、それが終わるまで待ってって言っただけで、遊ばないとは──」
「言い訳するなんて生意気な!」

頭を叩かれ、頬を叩かれた、容赦ない力だった。京助と結婚する前までの優しい顔は一切見せなかった。再び上がる手に陽葵は腕で庇ったが、継母は女性とは思えない力でその腕をどかし固定すると何度も何度も平手で叩き、泣いて許しを請う陽葵を蹴飛ばした、それを史絵瑠はニヤニヤと笑って見ているだけだった。
しかもこれで終わりではない、京助が仕事から帰ると継母はいかにも陽葵が史絵瑠をいじめたかのように報告するのだ、すると今度は京助の雷が落ちる。

それまで京助に怒られた記憶などほとんどなかった、あっても明らかに悪いこと、危ないことをしたなど陽葵にも理由が判ることだった。だが継母同様、陽葵の意見など聞かずに頭ごなしに陽葵が悪いと怒鳴り、叩き、時にベランダに放り出し、あるいは風呂場を真っ暗にして閉じ込めた。

違うという言い訳も、ごめんという声も、許してという声も届かなかった。再婚なんかしなければよかったのに、と僅か一か月で後悔した。

京助が史絵瑠のほうがかわいいことはすぐに判った。陽葵から見ても人形のように可愛らしい史絵瑠は声や仕草もかわいらしかった。そんな史絵瑠を京助はよく膝に乗せておしゃべりをしていた。陽葵にそんなことをしたのは本当に幼い頃だけだ、史絵瑠は2歳年下とはいえ再婚当初は小学3年生、その年代に抱っこなどされた覚えなど陽葵にはない、それだけ父は史絵瑠が大事なのだろうと思った。
対して陽葵の扱いはひどくなっていく。食べ方が汚いと同じ時間に摂ることはなくなった、テレビを見て団らんすることも許されなかった、トイレすら断ってでなければ使わせてもらえなくなった。

そうしてまもなく、陽葵は中学受験を勧められた。九州にある寮も完備された中高一貫校へ──いよいよ邪魔になって追い出されるのだと判った、しかしむしろありがたいと陽葵は努力を重ねる。受験を勧めながら塾へ行く提案はなく、ひたすら独学でだったが偏差値は70といわれる学校に無事合格を果たし、なんと成績優秀者として学費の免除までしてもらえるほどだった。
意気揚々と九州へ飛んだ。進学校と寮での暮らしは快適だった、多少意地悪な子もいたが、身体的な苦痛がないだけはるかに気が楽だった。

このまま卒業まで平穏に暮らせればと思うが、あいにく年末年始は寮は閉ざされる。夏休みは希望を出せば帰らずに済んだが、年末年始はさすがに寮を管理する者たちも休みが欲しいのだろう、いられないのならばとしかたなく帰省した。
最初の冬休みはもしかしたら親も変わっているかもしれないと期待した──偏差値70といわれる学校の特待生をやっているのだ、親も自慢になるのでは──しかしそれは甘すぎる考えだった。親は何も変化しておらず、継母は陽葵の飛行機代がバカにならないと文句を何度も言った。そして陽葵をいないものとして扱い、目が合えば怒鳴った。初詣すら家族3人で出かけ、高校1年の時など皆は温泉旅行に行ったが、陽葵は一人留守番だった。あちらこちら連れ出されるよりは気が楽だが、それらはまさに心の傷に塩を擦り込む行為だった。
本当に何をしてしまったのかと日々自問したが答えなどない。物置と化した自室に閉じこもり、寮に戻る日を心待ちにする冬休みを6回過ごした。

高校3年生は卒業後の進路を考えるころだ──唯一の相談者は担任だった。親が陽葵に関心がないことは既に知られていた、時折発生する雑費の支払いは度々滞り、手紙の返信はもちろん、三者面談の相談すらないのだ。電話をしても返事はお任せしますで終わる、事情を特に聞かなくても陽葵に対する親の扱いを知るには十分だった。教師陣はまさに親代わりとなって相談に乗った。
今後の学費や生活費の援助など期待できない上、早く親の呪縛から逃れたい陽葵は就職を希望したが、担任は大学進学を勧めた。ならば短大へといったが、それも4年制にしたほうがいいともアドバイスをする。2年の差は大きい、陽葵なら難関国立大も無理ではない、ここで踏ん張ればこの先のもっと長い人生、勝ち組になれるからと説得され指南に従う。

大学受験すら金がかかる、その金も親に頼めない陽葵は担任が勧めた難関と言われる国立大学のみに絞り背水の陣で臨む、幸い学校のサポートは手厚く合格することができた。
さらに学歴のお陰かトップクラスと言える会社に入れたのは本当に担任の教えの通りだった、ここまで頑張れた自分を褒めたい──できれば大学院に進み勉強を続けたい希望はあったが、そんなことを言える状況ではなかった。

家族とは会わずに済んで5年余り、家族は陽葵がどこの大学に進んだすら知らないだろう──いやそれは学校に聞けば判らなくもないだろうが、しかしどこに就職し、横浜に新居を構えたことは知らないはず。

育ててもらった恩はある、少なくとも高校までは出してもらえたのだ、礼はなくてはならない。時折児童虐待のニュースを見聞きする度、もしかしたら自分もそうなっていたのではと思えば、早々に寮がある学校へ放り出してくれた判断は今では感謝している。

それでも。突然奪われた愛情は戻ることはなく、受けた苦労や悲しみは消えることはない。

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