弊社の副社長に口説かれています
「すぐにメッセージ送って」

言われて陽葵はすぐにスタンプを送る、尚登のアイコンは外国と思われる海と空がきれいなものだった。『Naoto』と書かれたトークルームにブタが『よろしくお願いします』と土下座するスタンプを送れば、それを見た尚登はにこりと微笑む、真面目に一文を送ってくるかと思いきや、愛らしいスタンプとは──笑顔のままそれを登録する。

「ああ、すっかり冷めちまった、早く食べよう」

尚登は再度箸とスプーンを手に取り、フカヒレを口に運ぶ。そうだ、コース料理なのだと陽葵は思い出し、慌ててそれを口に運んだ。
間もなくドアがノックされ入ってきたウェイターは取り分け用の小皿を回転テーブルに置く、既にいくつもあり、自分たち二人しかいないのになぜ増やすのかと陽葵が思うと。

「尚登さま、冷えたおしぼりでもお持ちしますか?」

にこやかに言われ陽葵ははっとした、さっき自分が尚登の頬を思いきりひっぱたいたからだ。現に尚登の左の頬は赤くなっている、その尚登が微笑み答える。

「ありがとう、助かるよ」

断らないということは、相当痛かったのだろうか。

「すみませんでした」

ウェイターが出て行くと、陽葵はすぐに謝った。

「ああ、これ?」

尚登は笑顔で頬を示す。

「まあ悪いのは俺だしね、ひまりの純潔奪った罰にしては軽くていいんじゃない?」
「じゅ、純潔って……」

キスくらい、どうということはない、などと強がってみせるが動揺は隠せない。

「あ、ひまり、ってひらがなじゃなかったよな?」
「え?」

尚登は左手を持ち上げ聞いた、そこには陽葵が記した名前がある──なぜそんな質問に、と思ったが、IDを知っていたくらいだ、社員名簿を見たのだろう。

「はい、太陽の(よう)に、(あおい)です」
「ああ、そうそう、読めねーって思ったんだ。陽葵(ひまり)ねえ」
向日葵(ひまわり)のように明るく、ってつけてくれたみたいです」

7月生まれだ、季節をイメージして名付けたのだと母が嬉しそうに話してくれたのが懐かしい。

「なるほどね、かわいいじゃん」

そんなことをと簡単に言えてしまうところが遊び人だと、陽葵は思う。

「──っていうか……なんで私が副社長をぶったこと、判ったんですか……?」

入ってくるなり冷えたおしぼりをなどと言うとは、しかも不要そうな小皿をわざわざ持ってきてまでだ。

「カメラがあんだよ、でないとコース料理の進み具合も判らないだろ」

そう言って出入口がある側の隅を親指で示した、確かにそこの天井にドーム型の監視カメラらしきものがある。それを見て陽葵はなるほどと思う。

「それで全部見られて──」

思った瞬間、え、と声が出た。全てを見られていたのか、ならばキスしたところもだと背中に汗が流れる。音声は拾うのか、聞こえていたにしても交際のふりをするためのキスとは思わないかもしれない、現に史絵瑠は信じてとても怒っていた。

(う、嘘でしょ、副社長とキス、見られ……っ、しかも結構長かったし、く、口の中まで……!)

真っ赤になり口を押える陽葵に尚登は微笑む。

「まあ大丈夫だよ、ここの人たち、口は堅いし」

尚登は余計なことを言った、口が堅ければなにをしていいものではない、陽葵は危険を感じ、また抱き着かれたくないと、ほんの少し椅子を尚登から離した。

「目黒は何しに行ってたの?」

尚登は届いたおしぼりを左の頬に押し当てて聞いた。

「庭園美術館に行った帰りでした」
「庭園美術館?」
「目黒駅近くの、以前は皇族のかたの住まいとして作られたものでのちには迎賓館としても使われたような建物で、とても瀟洒で素敵な建物と庭園が見られる場所なんです」

カフェや茶室もあり、何時間でも飽きることなくいられる場所だ、もう少し遅い季節なら紅葉が楽しめただろう。

「へえ。そういうものに興味が?」
「はい、好きです、休日は大抵美術館や博物館を訪ねています」
「恋人はいないんだ」

不躾なプライベートな質問にムッとしてしまう。

「なんでそんな言い方なんですか。恋人と巡ってるって思わないんですか?」
「倒れそうに具合が悪くなった君を放って帰るような彼氏さん?」

意地悪な笑みで言われ、陽葵はますます不機嫌になる。

「先日はたまたま一人だっただけかもしれないじゃないですか」
「ファーストキスが今だった人が、そんな強がり言わなくても」

確かにそうだと、陽葵は小さく拳を握り締める。

「まあ、美術館やなんかは一人でも楽しめるもんな。俺も映画は一人で行きたいタイプ」
「あ、判ります」

もちろん友人たちと行くのもいいが、一人ならば世界に完全に浸ることができる。

「そんな楽しんだ日に妹さんに会っちまうなんてな。待ち伏せでもされてた感じ?」
「いえ、そんな感じではなかったです」

史絵瑠も驚いた様子だったのは演技ではなかった、一緒にいた男も何も知らなかったように感じた。そもそもそんな風に再会を演出する必要も……とその時ふと疑問に思う、史絵瑠はあの男と何をしていたのだろう。会社の上司だと言われれば納得できそうな年代だった、平日ならば確実に上司と外回りだと思っただろう、仕事にはよるが日曜日の夕方に近いような時間にも働いているのか……史絵瑠は何をして稼ぎを得ているだろう。現状も生活費として5万円を支払い、出て行くなら10万円は支払えると見込まれている仕事だということだ。

「偶然ばったり出会って、お父さんの件で困ってるから同居してくれ、ねえ……」

住まいをずっと探しており陽葵との再会で名案を思い付いたと言えばその通りだが、それまでになにかやりようがあったように思うが──次の料理の立派なロブスターが来たことで、その会話は終わった。
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