弊社の副社長に口説かれています
☆
たっぷりと2時間ほどかけて食事は終わった。テーブルチャージだ、ボーイが伝票を持ってきたが二つ折りのホルダーに挟まれたそれは値段を盗み見ることもできず、一体いくらの支払いなるのかと陽葵は冷や汗を流した。
尚登は中身を確認もせずクレジットカードをトレーに乗せる、真っ黒なカードを見て陽葵は喉の奥で驚いた。
店を出る時は店先までボーイと店長が見送りに出てくる、最後まで丁寧に深々と頭を下げて「またのお越しを」と送り出す様子にさすが高級中華と感心し、尚登が度々来ていることが伺えた。
「家まで送るわ」
エレベーターに乗り込むと尚登が1階のボタンを押しながら言う。
「いえ、そんな、一人で帰れます」
電車で帰るならば2階で降りて陸橋を使って対面の商業施設を抜けるのが手っ取り早くて楽だ、操作パネルの番号を押そうと手を延ばしたいが前を尚登が陣取っていて手を伸ばすのは憚られた。
「俺はタクシーで帰るから、一緒に帰ろうぜ」
「いえ、そんな」
タクシー代を払うくらいなら歩いて帰るなどと思った瞬間、思い出した。
「あの、私の分はお支払いします」
鞄から財布を出しながら言った。
「えーいいって。誘ったの俺だし、俺が食いたかったし」
「でも、お安くないですよね」
「まあそうだけど。でも俺の方が全然いい給料もらってるし」
「そ、それは確かに……!」
そう言ってくれるならと、それでもと1万円札を出して尚登に差し出した。ディナーのコース料理では全く足りない金額であることは承知だが。
「せめてこれくらいは。私のために来てくださったんですから」
「まあ結果的には解決してないみたいだけど?」
「そんなことないです」
少なくとも前進した気はした、史絵瑠に一緒に住めないと断言してくれたのだ。そして自分を大事にしろと言ってくれた、その言葉に従うならやはり史絵瑠を受け入れてはいけないんだという決意はできた。
「本当に……ありがとうございました」
呟くように礼を述べれば、尚登は陽葵が握る札に手を伸ばした。よかった受け取ってくれるのか、そう思い安心する、やはり自分のために来てくれたというなら割り勘のほうが気が楽だ──だが尚登の手は札ではなく陽葵の手を握った、途端に陽葵の体は硬直する。
「──あの」
離してと言いたくても声は喉の奥に張り付いた。
「──ああ、そっか、ごめん」
表情から触れ合うのが苦手だと言っていたのを思い出した。
「キスまでして」
言われて陽葵は慌てて視線を反らせる。確かに触れられると恐怖を覚えるが──さっきのキスはそんな感覚は全くなかった、驚きから言葉は失ったが──むしろ気持ちがよかったとは言えない。
「マジで金は要らない、男に恥かかすな」
尚登の真剣な声に、陽葵は頬をほんのり染めつつも現実に帰ってきた。
「でも、副社長の貴重なお時間をいただきましたから」
「別に? 俺も楽しかった」
「楽しいとこありましたか?」
史絵瑠の話は、第三者としても決して楽しいことではないだろう。
「キスできたし」
投げキッスとウィンク付きで言う尚登に、陽葵は顔中赤くすることしかできなかった。
「あ、じゃあ、こうしよう。今度俺になんか奢ってよ」
「えっ!?」
声がひときわ大きくなったのは、また副社長たる尚登と食事を摂ることに緊張を覚えたからだ。
「で、でも私、こんな立派なお店なんか、知りません……っ」
「ここは誰にも聞かれたくない話をするのにうってつけだから来ただけで、マックでもいいし、なんならガリガリ君でも」
「ガリガリ君じゃ、あまりに安すぎませんか……?」
「1本じゃ申し訳ないって言うなら、全額ガリガリ君、1年分だな」
尚登は明るく笑う。
「毎日一本ずつ届けてくれよ、おお、いいな、会う口実ができるじゃん。陽葵も一緒に食べようぜ」
そんな提案に陽葵は呆れる。
「──失礼ですが、いつも社内でお見掛けする様子とは、全然違うんですけどっ」
いつもは礼儀正しく、さわやかさを感じるイケメンだった、現に目黒駅のホームで声をかけてくれた時も紳士だったが、今夜の言動は別人かと思えるほどだ。さわやかではないといわないが、どうにも荒っぽい。
「悪いな、これが地だわ。一応副社長なんて職に就いた手前、それらしく振る舞っておかないと多方面に迷惑かけるからな」
別にそれを強いられたわけではない、自分なりの処世術だ。今は社長の補佐的な立場である、その傍らでおとなしくしていようと思ったのだ。もっとも関係者には尚登を幼少期から知っている者も多い、会えば飼いなさられた狼か、牙を抜かれたライオンかと笑われるが、今しばらくは猫を被っていようと思っている。
「でも勤務時間外までやってらんねえよ。だから外で副社長はやめろや」
「……でも」
自分にとっては副社長である、現に今もその立場で会っているのだ。
陽葵が戸惑う間に尚登はその手から札を抜き取り、陽葵の胸元、ジャケットとブラウスの隙間に差し込んだ。
「え、ちょ……っ」
「やるよ、俺からのお小遣い」
「え?」
受け取りました、あげます、が同時に行われたことで、絶対に受け取らないという意思を理解できた。
「ありがとうございます、ごちそうさまでした」
陽葵は素直に礼を述べ頭を下げた、そしてエレベーターは1階に着いてしまった。
「あ、私は電車で帰ります」
今更ながら陽葵は言う、2階で降りれば楽だったが地上にも横断歩道はある、それを渡ればよいだけだ。
「ここまで来たんなら一緒に帰ろうって」
「でも」
「お金なら君が持ってるだろ」
そう言って陽葵の胸元を指す、そこに差し込まれた札は既にポケットにしまったが、それで支払うということかと納得した。
「判りました、副社長をお送りします」
「サンキュー、とりあえず君の家な」
タクシー乗り場で停車している車に近づけば後部座席のドアが開く、尚登はドアを支え、陽葵に先に乗るよう勧めた。
「いえ、そんな!」
座席の優先順位は運転席の後ろが上座だ、尚登が乗ってくれと陽葵は勧めるが尚登は笑う。
「今は役職はどうでもいいわ、先乗んなよ」
ここで押し付けあってもしかたない、陽葵はありがたくタクシーに乗り込む。
「神奈川県民ホールの裏手まで。近くまで行ったら案内します」
行き先を告げたのは尚登だった、運転手がはいと答えて車は走り出す。
ホテルを出たタクシーは国際橋を抜けカップヌードル博物館や赤レンガ倉庫を見ながら走り続ける。新港橋を渡るとさらに横浜感が増す、通称ジャックと呼ばれる横浜税関を右手に見ながら左折した。
「次の開港広場前を右折、すぐの交差点を左折で入りますがよろしいでしょうか」
左へ曲がれば大桟橋に行き着く交差点だ、よくドラマやCMの撮影にも使われる港町・横浜の風情が満載の場所である。そしてさすがはタクシーの運転手だと陽葵は納得した、間違いなくそのルートが陽葵が住むマンションへの最短ルートだ。
「お蕎麦屋さんのあたりで停めてください」
陽葵が目印になる店舗を言えば、運転手ははいと言ってその真ん前で停車した。車が完全に停まる前に尚登が先ほどのクレジットカードを出している。
「え、私が……」
タクシーで帰ると言っていた、せめてここまでの代金は自分がと陽葵はポケットから1万円札を出したが、運転手からも尚登のカードの方か受け取りやすかったのか、カードで精算されてしまった。ここも尚登の支払いかと申し訳なく思う、千円余りの代金だ、それも合わせて今度お返ししようと陽葵は心の中で決めた。
「あの、ありがとうございます」
尚登に続いてタクシーを降りると陽葵は改めて礼を述べた。
「ん、別に」
尚登は笑顔で応じる。
「でも副社長、降りてしまっていいんですか?」
タクシーで帰ると言っていたが、確か尚登は都内住まいだったと陽葵は思い出す、みなとみらいからは完全に反対方向に来てしまった。
「いいのいいの」
尚登はさっさと歩いていってしまう、陽葵も慌ててあとを追いかけた。
たっぷりと2時間ほどかけて食事は終わった。テーブルチャージだ、ボーイが伝票を持ってきたが二つ折りのホルダーに挟まれたそれは値段を盗み見ることもできず、一体いくらの支払いなるのかと陽葵は冷や汗を流した。
尚登は中身を確認もせずクレジットカードをトレーに乗せる、真っ黒なカードを見て陽葵は喉の奥で驚いた。
店を出る時は店先までボーイと店長が見送りに出てくる、最後まで丁寧に深々と頭を下げて「またのお越しを」と送り出す様子にさすが高級中華と感心し、尚登が度々来ていることが伺えた。
「家まで送るわ」
エレベーターに乗り込むと尚登が1階のボタンを押しながら言う。
「いえ、そんな、一人で帰れます」
電車で帰るならば2階で降りて陸橋を使って対面の商業施設を抜けるのが手っ取り早くて楽だ、操作パネルの番号を押そうと手を延ばしたいが前を尚登が陣取っていて手を伸ばすのは憚られた。
「俺はタクシーで帰るから、一緒に帰ろうぜ」
「いえ、そんな」
タクシー代を払うくらいなら歩いて帰るなどと思った瞬間、思い出した。
「あの、私の分はお支払いします」
鞄から財布を出しながら言った。
「えーいいって。誘ったの俺だし、俺が食いたかったし」
「でも、お安くないですよね」
「まあそうだけど。でも俺の方が全然いい給料もらってるし」
「そ、それは確かに……!」
そう言ってくれるならと、それでもと1万円札を出して尚登に差し出した。ディナーのコース料理では全く足りない金額であることは承知だが。
「せめてこれくらいは。私のために来てくださったんですから」
「まあ結果的には解決してないみたいだけど?」
「そんなことないです」
少なくとも前進した気はした、史絵瑠に一緒に住めないと断言してくれたのだ。そして自分を大事にしろと言ってくれた、その言葉に従うならやはり史絵瑠を受け入れてはいけないんだという決意はできた。
「本当に……ありがとうございました」
呟くように礼を述べれば、尚登は陽葵が握る札に手を伸ばした。よかった受け取ってくれるのか、そう思い安心する、やはり自分のために来てくれたというなら割り勘のほうが気が楽だ──だが尚登の手は札ではなく陽葵の手を握った、途端に陽葵の体は硬直する。
「──あの」
離してと言いたくても声は喉の奥に張り付いた。
「──ああ、そっか、ごめん」
表情から触れ合うのが苦手だと言っていたのを思い出した。
「キスまでして」
言われて陽葵は慌てて視線を反らせる。確かに触れられると恐怖を覚えるが──さっきのキスはそんな感覚は全くなかった、驚きから言葉は失ったが──むしろ気持ちがよかったとは言えない。
「マジで金は要らない、男に恥かかすな」
尚登の真剣な声に、陽葵は頬をほんのり染めつつも現実に帰ってきた。
「でも、副社長の貴重なお時間をいただきましたから」
「別に? 俺も楽しかった」
「楽しいとこありましたか?」
史絵瑠の話は、第三者としても決して楽しいことではないだろう。
「キスできたし」
投げキッスとウィンク付きで言う尚登に、陽葵は顔中赤くすることしかできなかった。
「あ、じゃあ、こうしよう。今度俺になんか奢ってよ」
「えっ!?」
声がひときわ大きくなったのは、また副社長たる尚登と食事を摂ることに緊張を覚えたからだ。
「で、でも私、こんな立派なお店なんか、知りません……っ」
「ここは誰にも聞かれたくない話をするのにうってつけだから来ただけで、マックでもいいし、なんならガリガリ君でも」
「ガリガリ君じゃ、あまりに安すぎませんか……?」
「1本じゃ申し訳ないって言うなら、全額ガリガリ君、1年分だな」
尚登は明るく笑う。
「毎日一本ずつ届けてくれよ、おお、いいな、会う口実ができるじゃん。陽葵も一緒に食べようぜ」
そんな提案に陽葵は呆れる。
「──失礼ですが、いつも社内でお見掛けする様子とは、全然違うんですけどっ」
いつもは礼儀正しく、さわやかさを感じるイケメンだった、現に目黒駅のホームで声をかけてくれた時も紳士だったが、今夜の言動は別人かと思えるほどだ。さわやかではないといわないが、どうにも荒っぽい。
「悪いな、これが地だわ。一応副社長なんて職に就いた手前、それらしく振る舞っておかないと多方面に迷惑かけるからな」
別にそれを強いられたわけではない、自分なりの処世術だ。今は社長の補佐的な立場である、その傍らでおとなしくしていようと思ったのだ。もっとも関係者には尚登を幼少期から知っている者も多い、会えば飼いなさられた狼か、牙を抜かれたライオンかと笑われるが、今しばらくは猫を被っていようと思っている。
「でも勤務時間外までやってらんねえよ。だから外で副社長はやめろや」
「……でも」
自分にとっては副社長である、現に今もその立場で会っているのだ。
陽葵が戸惑う間に尚登はその手から札を抜き取り、陽葵の胸元、ジャケットとブラウスの隙間に差し込んだ。
「え、ちょ……っ」
「やるよ、俺からのお小遣い」
「え?」
受け取りました、あげます、が同時に行われたことで、絶対に受け取らないという意思を理解できた。
「ありがとうございます、ごちそうさまでした」
陽葵は素直に礼を述べ頭を下げた、そしてエレベーターは1階に着いてしまった。
「あ、私は電車で帰ります」
今更ながら陽葵は言う、2階で降りれば楽だったが地上にも横断歩道はある、それを渡ればよいだけだ。
「ここまで来たんなら一緒に帰ろうって」
「でも」
「お金なら君が持ってるだろ」
そう言って陽葵の胸元を指す、そこに差し込まれた札は既にポケットにしまったが、それで支払うということかと納得した。
「判りました、副社長をお送りします」
「サンキュー、とりあえず君の家な」
タクシー乗り場で停車している車に近づけば後部座席のドアが開く、尚登はドアを支え、陽葵に先に乗るよう勧めた。
「いえ、そんな!」
座席の優先順位は運転席の後ろが上座だ、尚登が乗ってくれと陽葵は勧めるが尚登は笑う。
「今は役職はどうでもいいわ、先乗んなよ」
ここで押し付けあってもしかたない、陽葵はありがたくタクシーに乗り込む。
「神奈川県民ホールの裏手まで。近くまで行ったら案内します」
行き先を告げたのは尚登だった、運転手がはいと答えて車は走り出す。
ホテルを出たタクシーは国際橋を抜けカップヌードル博物館や赤レンガ倉庫を見ながら走り続ける。新港橋を渡るとさらに横浜感が増す、通称ジャックと呼ばれる横浜税関を右手に見ながら左折した。
「次の開港広場前を右折、すぐの交差点を左折で入りますがよろしいでしょうか」
左へ曲がれば大桟橋に行き着く交差点だ、よくドラマやCMの撮影にも使われる港町・横浜の風情が満載の場所である。そしてさすがはタクシーの運転手だと陽葵は納得した、間違いなくそのルートが陽葵が住むマンションへの最短ルートだ。
「お蕎麦屋さんのあたりで停めてください」
陽葵が目印になる店舗を言えば、運転手ははいと言ってその真ん前で停車した。車が完全に停まる前に尚登が先ほどのクレジットカードを出している。
「え、私が……」
タクシーで帰ると言っていた、せめてここまでの代金は自分がと陽葵はポケットから1万円札を出したが、運転手からも尚登のカードの方か受け取りやすかったのか、カードで精算されてしまった。ここも尚登の支払いかと申し訳なく思う、千円余りの代金だ、それも合わせて今度お返ししようと陽葵は心の中で決めた。
「あの、ありがとうございます」
尚登に続いてタクシーを降りると陽葵は改めて礼を述べた。
「ん、別に」
尚登は笑顔で応じる。
「でも副社長、降りてしまっていいんですか?」
タクシーで帰ると言っていたが、確か尚登は都内住まいだったと陽葵は思い出す、みなとみらいからは完全に反対方向に来てしまった。
「いいのいいの」
尚登はさっさと歩いていってしまう、陽葵も慌ててあとを追いかけた。