弊社の副社長に口説かれています
「悪かったって。でも本当に俺だって気になる子がいるって話だけだぜ? だから少し見守って欲しいって言ったら、なんかえらいとんとん拍子に話が進んじまって、もう一家総出のお祭り騒ぎ」
「……一家総出……」
ごくりと息を呑んだ、尚登の祖父たる会長の耳にも入っているというのか。
「でも、だからって、結婚、なんて……」
結婚の必要性を感じなかった、その価値すら見出せないのは、壊れた家族のせいだろう。
早くに亡くなった実母、しばらくは父と二人きりだった生活、父の再婚によって新しくできた母と妹、そして追い出されるように遠く離れた学校への進学──これまでの人生が一気に思い出されくらくらしてしまうが、尚登は笑顔で言葉を続ける。
「まあ、ギブアンドテイクということで、俺も助けてくれよ」
「ギブアンドテイク?」
何のことだとその目を見れば、尚登はにこりと微笑んだ。
「妹さんから助けてやったのは事実だろ、俺も助けてくれ」
「た、助けるって……」
何から助ければいいというのだろう。
「毎週会いたくもない女と、笑顔の仮面つけて会わされてるほうの身にもなれよ、まったく時間と気遣いの無駄だ」
ひじ掛けに頬杖をつきため息交じりに言うのは、本当に嫌だという証拠だろう。そして社長は日曜日は断っておくと言っていた、確かに相手がいればもう見合いなどせずに済むのだ。
目黒で会った時に尚登は言っていた、身内の顔に泥を塗るくらいはいいが相手の立場を考えれば無視もできないと。
「妹さんから連絡は?」
唐突に言われ、陽葵は慌てて頭を左右に振った。
「まだ電源は入れてません」
怖くてその勇気が出なかったが、幸いそんなにマメに連絡を取り合うような友人もおらず、電源を入れていなくても心配や不安になるほど生活に支障はなかった、いっそのことスマートフォンなどなくても生活できるかもと思えるレベルだ。
「これで妹さんとの縁が切れたなら俺のお陰だし、これからあるとしたら俺がそばにいれば相手してやれる。な? ギブアンドテイク」
それは心強く、助かるのは事実だ──だが。
「でも、副社長の恋人なんて、荷が重いです」
「尚登」
尚登の名乗りにそう呼べと言うことだと判ったが、社内では肩書きでよいのではないだろうかと思った陽葵の心を読んだがごとく、尚登は言う。
「『副社長の恋人』が嫌だっていうなら、いますぐ会社は辞めてもいい」
「えっ、私、辞めません……っ」
思わず言えば、尚登は笑う。
「陽葵じゃねえよ、俺だわ」
そんな言葉にはっとして尚登を見つめた、その目は冗談ではないと言っていた。
「そもそも俺は副社長なんて柄じゃねえんだよ。高見沢家そのものならまだしも、会社については跡を継ぐ気なんか一切ない、いずれ時期が来れば辞めるつもりだ。それが少し早くなるだけだ」
「え、でも……確か副社長は一人っ子だったとお聞きしていますが……」
他に家督争いをするような者はいない、だからこそ、『社長夫人の座』を狙う者が尚登にたかるのだ。
「今どき一族経営なんて流行らねえよ。会社なんて頭がすげ変わったって機能するもんだ、法人ってのはそういうこと。それで潰れるならそれまでってことだろ」
尚登は頬杖をついたまま語り出す。
「いざとなれば誰かしら立つ、一応後釜は用意してから辞めるつもりだったけど、今すぐ辞めても俺は困らねえからそれはそれでいい。ましてや副社長なんて社長の補佐か代理でしかない、今俺がいなくなったって会社はこれっぽちも困らない」
そんなことをと思うが、まさに誰かいなくなったくらいで仕事が回らなくなるのかと言っていたのと同じことかと陽葵は納得した。
「でもまあ、現状は大したこともしてないのに金が稼げるのはありがたいから、実際辞めるのはもうちょい後が助かるんだが」
そんな言葉には思い切り力が抜けた、結局辞めないということか。
「からかうのもいい加減にしてください! 経理課に戻ります!」
出て行こうとすると、腕を掴み止められてしまった。尚登の動きは早く、素早く立ち上がり陽葵の手を掴んでいた。
「俺や親父の顔を潰すなって。意気揚々と娘さんをくださいって連れ出したのに、即刻里帰りされちゃ恥ずかしいだろ」
「秘書の仕事なんかできません! 三宅さんが引き受けてくれたとはいえ、私の仕事も途中でしたし!」
「へえ、じゃあ陽葵が経理課で仕事してる姿、俺は後ろでじっと見てようか」
「嫌です! そんなに暇なんですか!?」
「忙しいよ、陽葵をずっと見てるから」
「なに──」
馬鹿なことを、と続けようとした言葉を飲み込んでしまった。言葉どおり顔を覗き込まれ尚登の顔が近くにあった、息がかかるほどに近いことに、とくんと心臓が軽やかに跳ね上がったのが合図だった。尚登に腕を掴まれていることに気づいた、途端に全身から血の気が引いていく。顔が引きつってしまうのが判った、懸命に悟らせまいとしたが、尚登は気づいた。
「ああ、ごめん」
静かに言って手を離した。
「重症だな」
触れられるのが怖いと言っていたのは覚えている、その陽葵が青い顔のまま胸に手を当て深呼吸するのが見えた。
「まあとりあえず期間限定ってことで始めね? そうだな、お互い恋人ができたら終わりってのはどう?」
尚登の提案に、嘘の婚約をと言う事だと判った。
「……それは分が悪いので、賛同いたしかねます」
恋人などできるはずがない、尚登にだってそれくらい判っているだろうに、意地が悪い提案だと思った。
「んじゃ、1年」
1年、それなら──。
「それまでに陽葵を口説き落とすわ」
なんとも自信満々な笑みで言われ、陽葵は無性に腹が立ち言い返す。
「そのような理由でしたら、期限はひと月とさせていただきます」
嫌われたっていいと憎まれ口を放った、それを尚登は笑って受け入れる。
だからこそ陽葵は誓う、ひと月だったら嫌われる努力をしよう、あるいは逃げ回ってしまえばいい──。
「……一家総出……」
ごくりと息を呑んだ、尚登の祖父たる会長の耳にも入っているというのか。
「でも、だからって、結婚、なんて……」
結婚の必要性を感じなかった、その価値すら見出せないのは、壊れた家族のせいだろう。
早くに亡くなった実母、しばらくは父と二人きりだった生活、父の再婚によって新しくできた母と妹、そして追い出されるように遠く離れた学校への進学──これまでの人生が一気に思い出されくらくらしてしまうが、尚登は笑顔で言葉を続ける。
「まあ、ギブアンドテイクということで、俺も助けてくれよ」
「ギブアンドテイク?」
何のことだとその目を見れば、尚登はにこりと微笑んだ。
「妹さんから助けてやったのは事実だろ、俺も助けてくれ」
「た、助けるって……」
何から助ければいいというのだろう。
「毎週会いたくもない女と、笑顔の仮面つけて会わされてるほうの身にもなれよ、まったく時間と気遣いの無駄だ」
ひじ掛けに頬杖をつきため息交じりに言うのは、本当に嫌だという証拠だろう。そして社長は日曜日は断っておくと言っていた、確かに相手がいればもう見合いなどせずに済むのだ。
目黒で会った時に尚登は言っていた、身内の顔に泥を塗るくらいはいいが相手の立場を考えれば無視もできないと。
「妹さんから連絡は?」
唐突に言われ、陽葵は慌てて頭を左右に振った。
「まだ電源は入れてません」
怖くてその勇気が出なかったが、幸いそんなにマメに連絡を取り合うような友人もおらず、電源を入れていなくても心配や不安になるほど生活に支障はなかった、いっそのことスマートフォンなどなくても生活できるかもと思えるレベルだ。
「これで妹さんとの縁が切れたなら俺のお陰だし、これからあるとしたら俺がそばにいれば相手してやれる。な? ギブアンドテイク」
それは心強く、助かるのは事実だ──だが。
「でも、副社長の恋人なんて、荷が重いです」
「尚登」
尚登の名乗りにそう呼べと言うことだと判ったが、社内では肩書きでよいのではないだろうかと思った陽葵の心を読んだがごとく、尚登は言う。
「『副社長の恋人』が嫌だっていうなら、いますぐ会社は辞めてもいい」
「えっ、私、辞めません……っ」
思わず言えば、尚登は笑う。
「陽葵じゃねえよ、俺だわ」
そんな言葉にはっとして尚登を見つめた、その目は冗談ではないと言っていた。
「そもそも俺は副社長なんて柄じゃねえんだよ。高見沢家そのものならまだしも、会社については跡を継ぐ気なんか一切ない、いずれ時期が来れば辞めるつもりだ。それが少し早くなるだけだ」
「え、でも……確か副社長は一人っ子だったとお聞きしていますが……」
他に家督争いをするような者はいない、だからこそ、『社長夫人の座』を狙う者が尚登にたかるのだ。
「今どき一族経営なんて流行らねえよ。会社なんて頭がすげ変わったって機能するもんだ、法人ってのはそういうこと。それで潰れるならそれまでってことだろ」
尚登は頬杖をついたまま語り出す。
「いざとなれば誰かしら立つ、一応後釜は用意してから辞めるつもりだったけど、今すぐ辞めても俺は困らねえからそれはそれでいい。ましてや副社長なんて社長の補佐か代理でしかない、今俺がいなくなったって会社はこれっぽちも困らない」
そんなことをと思うが、まさに誰かいなくなったくらいで仕事が回らなくなるのかと言っていたのと同じことかと陽葵は納得した。
「でもまあ、現状は大したこともしてないのに金が稼げるのはありがたいから、実際辞めるのはもうちょい後が助かるんだが」
そんな言葉には思い切り力が抜けた、結局辞めないということか。
「からかうのもいい加減にしてください! 経理課に戻ります!」
出て行こうとすると、腕を掴み止められてしまった。尚登の動きは早く、素早く立ち上がり陽葵の手を掴んでいた。
「俺や親父の顔を潰すなって。意気揚々と娘さんをくださいって連れ出したのに、即刻里帰りされちゃ恥ずかしいだろ」
「秘書の仕事なんかできません! 三宅さんが引き受けてくれたとはいえ、私の仕事も途中でしたし!」
「へえ、じゃあ陽葵が経理課で仕事してる姿、俺は後ろでじっと見てようか」
「嫌です! そんなに暇なんですか!?」
「忙しいよ、陽葵をずっと見てるから」
「なに──」
馬鹿なことを、と続けようとした言葉を飲み込んでしまった。言葉どおり顔を覗き込まれ尚登の顔が近くにあった、息がかかるほどに近いことに、とくんと心臓が軽やかに跳ね上がったのが合図だった。尚登に腕を掴まれていることに気づいた、途端に全身から血の気が引いていく。顔が引きつってしまうのが判った、懸命に悟らせまいとしたが、尚登は気づいた。
「ああ、ごめん」
静かに言って手を離した。
「重症だな」
触れられるのが怖いと言っていたのは覚えている、その陽葵が青い顔のまま胸に手を当て深呼吸するのが見えた。
「まあとりあえず期間限定ってことで始めね? そうだな、お互い恋人ができたら終わりってのはどう?」
尚登の提案に、嘘の婚約をと言う事だと判った。
「……それは分が悪いので、賛同いたしかねます」
恋人などできるはずがない、尚登にだってそれくらい判っているだろうに、意地が悪い提案だと思った。
「んじゃ、1年」
1年、それなら──。
「それまでに陽葵を口説き落とすわ」
なんとも自信満々な笑みで言われ、陽葵は無性に腹が立ち言い返す。
「そのような理由でしたら、期限はひと月とさせていただきます」
嫌われたっていいと憎まれ口を放った、それを尚登は笑って受け入れる。
だからこそ陽葵は誓う、ひと月だったら嫌われる努力をしよう、あるいは逃げ回ってしまえばいい──。