弊社の副社長に口説かれています
☆
陽葵は山本から秘書の仕事について教わっていた。
山本も陽葵が来るまで状況を全く知らされていなかった、当然だ、尚登と社長は出社するとまっすぐ陽葵の元へ向かっていたのだ。いきなり部下のような者が来て少々困り気味だったが、事情を聞けば快諾していたのはさすがだと思った。
「基本的には社長のお仕事の同行ばかりですので、社長付きの秘書である小西さんからスケジュールが来るのを待ちます、それは専用の端末がありますので──」
そんな話をしていると尚登の声が響いた。
「うおーい、戻ったぁ」
山本と共に声のほうを振り返り、陽葵は驚く。
「え、そんなにありましたか?」
大きな段ボールを二つも抱えていた、尚登の顔が隠れてしまうほどだ。仕事場が異動になった陽葵の荷物を、陽葵が仕事を教わっている間は暇だから自分が行こうと尚登が取りに行っていた。大量になってしまった荷物を経理課の者、特に女子が一緒に運ぶと当然名乗り出たが、尚登は当たり前に断っている。
たくさんの荷物を陽葵は慌ててそれを受け取ろうと出入口に向かうが尚登は笑顔で断る
「ああ、女子は荷物が多くて、びっくりだわ」
一緒にやってきた山本には上に乗っていた一つを運んでもらう。
「済みません」
ロッカーというものはなく、全て机にあるものだけのはずだが箱に詰めればこんなにもなるのかと驚いた。
「三宅さんっていったっけ? 手伝ってもらったけど、取り残しがあったらそれは自分で取り行けよ」
陽葵ははいと答えて箱の一つを開けば、そこには通勤に使っている鞄が入っていた。財布やスマートフォンなどの貴重品は机でも鍵がかかる引き出しに入れるが、その鍵も尚登に預けて持ってきてもらったのだ。
「しっかし、経理部は賑やかだな。座って仕事してる奴なんか少数だったぞ、揃って大きいな声でああでもないこうでもないって大騒ぎで」
はは、と陽葵は疲れた笑いが出た。それはいつもの経理部ではない、いつもはキーボードを叩く音が響くオフィスで、たまにする話し声もひそやかなのだ。尚登がいることで皆、陽気になったのだと判る。
「んだよ、まだ陽葵の机は来てないのか」
自分が経理部へ行く前に机を入れて欲しいと庶務に頼んでいた、余りはあるのですぐにお持ちしますとの答えだったが、とりあえず応接セットのローテーブルにでもと置いた時、声がかかった。
「失礼いたします」
丁寧だがなんとも圧を感じる挨拶を発したのは、秘書課の課長、落合恵美だ。
「藤田陽葵さんの新しい社員証と机をお持ちしましたわ」
ピンヒールを履いた腰をくねらせながら中へ入ってくる、そうしてまで女性らしさを強調したいのだ。
「わざわざ秘書課の落合さんが届けてくださり、ありがとうございます」
本来庶務課の仕事だろうと嫌味で礼を述べる尚登に、そうとは気づかず落合は笑顔でその社員証を差し出すが、尚登も笑顔でそれは陽葵に渡してくれと応じた。すぐさま長い髪を飛ばすかのようにくるりと陽葵に向き直るが陽葵は悲鳴が出そうになった、落合の目は視線だけで陽葵を殺さんとばかりの迫力がありすぎた。
「どうぞ」
横柄に言って社員証を差し出す、その仕草も乱暴だった。
「ありがと、ございます」
「以前の社員証はお預かりしますわ」
早く出せと言わんばかりに手を振った。陽葵は慌ててカードホルダーから計理部の社員証を抜いて差し出すが、落合はそれを奪うように乱暴に取り上げる。
「机はどちらにいたしますの?」
それは尚登にかけられた言葉だ、その媚びた声は陽葵に対してものとは大違いだ。
「山本さんのと並べてください」
尚登が言うと、机を運んできた庶務課の男たちがはいと答えた。男二人がかりで運んできた机は重厚で高級そうな木製で、経理課で使っていたオフィス家具とは大違いである。
山本の机を尚登と山本で少し移動し、新しい机を壁際に並べる、それはより尚登に近い場所だ。
「そもそもぉ、こんな突然の人事異動など、前代未聞、我田引水、言語道断ですわ。全く非常識な」
それは陽葵に向けられた言葉だった、落合は仁王立ちになり陽葵ににらみを利かせている。
「人の迷惑も顧みず」
ため息交じりに言うのは、陽葵が尚登をたらし込んだとでも言いたいのだろうと判った。別に自分が悪いと言われるのは構わないが、事実は違うくらいは言い返したい、だがそれでは尚登に責任を押し付けることに──。
「すみません、そこまでご迷惑でしたか」
尚登がにこやかに割り込んでくる、途端に落合が嬉しそうに微笑んだのを陽葵は見た。
「私が父に頼み込んだんです、陽葵が私の知らないところで他の男の目に晒されているのが耐えられなかったし」
そんなことを言いながら陽葵を背後から抱き締める──心臓が跳ね上がるのは、悪寒なのか歓喜なのか──恥ずかし気に頬を染める陽葵を見て、落合課長はなんとも苦々しい顔をした。
「意地の悪い女性もいると思うとどうにも落ち着かなくて。父もそうかそうかと喜んでくれました、知ってますでしょ、社長の行動力」
「ええ、まあ……」
落合はつまらなそうに相づちを打った。行動力とは仕事の面でも発揮されているが、恋愛においてのことである。尚登自身、自分が生まれる前のことでもあり、詳しいことを知っているわけではないが母曰く父に口説かれたといって数々の逸話を聞かされたことがある、それを肯定する落合の返事だった。
片思いを続けている男の恋の話を終わらせようと、落合は不機嫌に「失礼します」と挨拶し部屋からささっといなくなる、机を運んできた男二人も設置が終わると一礼して出て行った。未だバックハグ状態の陽葵たちを見て、祝福するように微笑みを残していくが陽葵はやや居心地が悪い。
「悪いな、あのババア、うちの母と、親父の取り合いをして負けたのを未だに根に持ってるらしい」
尚登が耳元で説明する、だが返事すらない陽葵の様子に気が付きすぐに離れた、寸前、優しく髪をひと筋取り、撫でるように離す。
「まあ気にすんな」
取り合いというなら結婚前、尚登の年齢より前のことだと思えば、確かに根は深そうだが、ババアという呼称はどうかと思うと、
「副社長、少なくとも社内でババアはやめましょう、藤田さんにもよくないです」
山本が陽葵の机を拭きながら、やんわりと笑顔で叱った。
「でもまあ、言いたくなるお気持ちは判りますけど。副社長は私の息子同然、とかよく言ってますしね」
そういうことを隠さない落合が怖いと陽葵は思った、未だ社長が好きなのだ、でなければ恋敵に負けたのに同じ会社で働き続けないだろう。
「落合課長が未だに独身なのも未練がおありなんでしょうね、お見合い相手も半数ほどは落合課長が仲介しているそうですよ」
自分は想いを遂げられなかったから代わりにということか──陽葵はぞっとしてしまう。
「マジありえねえわ、気持ち悪すぎなんだよ」
さすがに今度こそ本気で同情した。それを知っていて見合いに赴いていた尚登が偉いとすら思う、そしてどんなに気の合う女性が現れてもその人と結ばれることはなかっただろう、落合に貸し借りは作りたくないからだ。
自分はその見合いを止めるための存在だ──早く尚登に意中の女性が現れればいいのにと心から願った。
陽葵は山本から秘書の仕事について教わっていた。
山本も陽葵が来るまで状況を全く知らされていなかった、当然だ、尚登と社長は出社するとまっすぐ陽葵の元へ向かっていたのだ。いきなり部下のような者が来て少々困り気味だったが、事情を聞けば快諾していたのはさすがだと思った。
「基本的には社長のお仕事の同行ばかりですので、社長付きの秘書である小西さんからスケジュールが来るのを待ちます、それは専用の端末がありますので──」
そんな話をしていると尚登の声が響いた。
「うおーい、戻ったぁ」
山本と共に声のほうを振り返り、陽葵は驚く。
「え、そんなにありましたか?」
大きな段ボールを二つも抱えていた、尚登の顔が隠れてしまうほどだ。仕事場が異動になった陽葵の荷物を、陽葵が仕事を教わっている間は暇だから自分が行こうと尚登が取りに行っていた。大量になってしまった荷物を経理課の者、特に女子が一緒に運ぶと当然名乗り出たが、尚登は当たり前に断っている。
たくさんの荷物を陽葵は慌ててそれを受け取ろうと出入口に向かうが尚登は笑顔で断る
「ああ、女子は荷物が多くて、びっくりだわ」
一緒にやってきた山本には上に乗っていた一つを運んでもらう。
「済みません」
ロッカーというものはなく、全て机にあるものだけのはずだが箱に詰めればこんなにもなるのかと驚いた。
「三宅さんっていったっけ? 手伝ってもらったけど、取り残しがあったらそれは自分で取り行けよ」
陽葵ははいと答えて箱の一つを開けば、そこには通勤に使っている鞄が入っていた。財布やスマートフォンなどの貴重品は机でも鍵がかかる引き出しに入れるが、その鍵も尚登に預けて持ってきてもらったのだ。
「しっかし、経理部は賑やかだな。座って仕事してる奴なんか少数だったぞ、揃って大きいな声でああでもないこうでもないって大騒ぎで」
はは、と陽葵は疲れた笑いが出た。それはいつもの経理部ではない、いつもはキーボードを叩く音が響くオフィスで、たまにする話し声もひそやかなのだ。尚登がいることで皆、陽気になったのだと判る。
「んだよ、まだ陽葵の机は来てないのか」
自分が経理部へ行く前に机を入れて欲しいと庶務に頼んでいた、余りはあるのですぐにお持ちしますとの答えだったが、とりあえず応接セットのローテーブルにでもと置いた時、声がかかった。
「失礼いたします」
丁寧だがなんとも圧を感じる挨拶を発したのは、秘書課の課長、落合恵美だ。
「藤田陽葵さんの新しい社員証と机をお持ちしましたわ」
ピンヒールを履いた腰をくねらせながら中へ入ってくる、そうしてまで女性らしさを強調したいのだ。
「わざわざ秘書課の落合さんが届けてくださり、ありがとうございます」
本来庶務課の仕事だろうと嫌味で礼を述べる尚登に、そうとは気づかず落合は笑顔でその社員証を差し出すが、尚登も笑顔でそれは陽葵に渡してくれと応じた。すぐさま長い髪を飛ばすかのようにくるりと陽葵に向き直るが陽葵は悲鳴が出そうになった、落合の目は視線だけで陽葵を殺さんとばかりの迫力がありすぎた。
「どうぞ」
横柄に言って社員証を差し出す、その仕草も乱暴だった。
「ありがと、ございます」
「以前の社員証はお預かりしますわ」
早く出せと言わんばかりに手を振った。陽葵は慌ててカードホルダーから計理部の社員証を抜いて差し出すが、落合はそれを奪うように乱暴に取り上げる。
「机はどちらにいたしますの?」
それは尚登にかけられた言葉だ、その媚びた声は陽葵に対してものとは大違いだ。
「山本さんのと並べてください」
尚登が言うと、机を運んできた庶務課の男たちがはいと答えた。男二人がかりで運んできた机は重厚で高級そうな木製で、経理課で使っていたオフィス家具とは大違いである。
山本の机を尚登と山本で少し移動し、新しい机を壁際に並べる、それはより尚登に近い場所だ。
「そもそもぉ、こんな突然の人事異動など、前代未聞、我田引水、言語道断ですわ。全く非常識な」
それは陽葵に向けられた言葉だった、落合は仁王立ちになり陽葵ににらみを利かせている。
「人の迷惑も顧みず」
ため息交じりに言うのは、陽葵が尚登をたらし込んだとでも言いたいのだろうと判った。別に自分が悪いと言われるのは構わないが、事実は違うくらいは言い返したい、だがそれでは尚登に責任を押し付けることに──。
「すみません、そこまでご迷惑でしたか」
尚登がにこやかに割り込んでくる、途端に落合が嬉しそうに微笑んだのを陽葵は見た。
「私が父に頼み込んだんです、陽葵が私の知らないところで他の男の目に晒されているのが耐えられなかったし」
そんなことを言いながら陽葵を背後から抱き締める──心臓が跳ね上がるのは、悪寒なのか歓喜なのか──恥ずかし気に頬を染める陽葵を見て、落合課長はなんとも苦々しい顔をした。
「意地の悪い女性もいると思うとどうにも落ち着かなくて。父もそうかそうかと喜んでくれました、知ってますでしょ、社長の行動力」
「ええ、まあ……」
落合はつまらなそうに相づちを打った。行動力とは仕事の面でも発揮されているが、恋愛においてのことである。尚登自身、自分が生まれる前のことでもあり、詳しいことを知っているわけではないが母曰く父に口説かれたといって数々の逸話を聞かされたことがある、それを肯定する落合の返事だった。
片思いを続けている男の恋の話を終わらせようと、落合は不機嫌に「失礼します」と挨拶し部屋からささっといなくなる、机を運んできた男二人も設置が終わると一礼して出て行った。未だバックハグ状態の陽葵たちを見て、祝福するように微笑みを残していくが陽葵はやや居心地が悪い。
「悪いな、あのババア、うちの母と、親父の取り合いをして負けたのを未だに根に持ってるらしい」
尚登が耳元で説明する、だが返事すらない陽葵の様子に気が付きすぐに離れた、寸前、優しく髪をひと筋取り、撫でるように離す。
「まあ気にすんな」
取り合いというなら結婚前、尚登の年齢より前のことだと思えば、確かに根は深そうだが、ババアという呼称はどうかと思うと、
「副社長、少なくとも社内でババアはやめましょう、藤田さんにもよくないです」
山本が陽葵の机を拭きながら、やんわりと笑顔で叱った。
「でもまあ、言いたくなるお気持ちは判りますけど。副社長は私の息子同然、とかよく言ってますしね」
そういうことを隠さない落合が怖いと陽葵は思った、未だ社長が好きなのだ、でなければ恋敵に負けたのに同じ会社で働き続けないだろう。
「落合課長が未だに独身なのも未練がおありなんでしょうね、お見合い相手も半数ほどは落合課長が仲介しているそうですよ」
自分は想いを遂げられなかったから代わりにということか──陽葵はぞっとしてしまう。
「マジありえねえわ、気持ち悪すぎなんだよ」
さすがに今度こそ本気で同情した。それを知っていて見合いに赴いていた尚登が偉いとすら思う、そしてどんなに気の合う女性が現れてもその人と結ばれることはなかっただろう、落合に貸し借りは作りたくないからだ。
自分はその見合いを止めるための存在だ──早く尚登に意中の女性が現れればいいのにと心から願った。