弊社の副社長に口説かれています



午前中は荷物の片付けと、秘書としての仕事の内容の説明を山本にしてもらっているうちに終わってしまった。

「飯、飯、飯にしよう」

席で書類を見ていた尚登がそれを机に放り出しながら声を上げる。

「外へ出ますか?」

山本が笑顔で聞くが、

「面倒だから出前頼もう、俺、ハンバーガー食べたい」
「またそういう、ファストフードなんて」

やんわりと叱る山本さんが優しい。

「親父たちいるとそういうの食えないじゃん、陽葵、何食べる?」

スマートフォンでメニューを見ながら言葉に、陽葵はその画面を覗き込んだ。

「えっと……チキンてりやきを、サラダセットで」
「オッケー、山本さんは?」
「私はダブルチーズバーガーのセットをサイズアップでお願いします」
「食べるんじゃん」

言いながらもそれをカートに入れて精算する。

「届いたら受付から連絡があるので、下まで取りに行きます」

山本から教わり、陽葵はそうかと思いあたる。自分たちは出前など頼んだことないが、きっと同じだ。上には来てもらわずに受付で受け取のだ。もっとも重役などでなければ、受付嬢たちはきっと嫌な顔をすることだろう、尚登だから許されるのだ。

「普段は社長と一緒に、取引先の方たちと会食となることが多いです、その時は私たち秘書は別室で食事を摂ることになります」

そんなにしょっちゅう外食なのかと驚いた、昨日の高級中華などに行っているのだろうか、羨ましいような、堅苦しくて嫌なような。

「毎日そんなの食ってたら血糖値上がるわな。ジャックフード、最高」
「ジャンクフードもいかがなものかと思いますけどね」

尚登の言葉を山本がすかさず突っ込む様子に仲の良さが判った。先日の食事の礼もガリガリ君でいいなどと言っていた尚登だ、金銭感覚は庶民に近いのかもしれない、そう思うと笑顔になっていた。

「陽葵もジャンクフード好き?」

陽葵の笑顔を見た尚登が聞く。

「え、はい……嫌いじゃないです」

少なくともマナーが気になる高級な料理よりは、ずっと好きだ。





午後は早速秘書としての仕事を始めることになる。

「藤田さん、この書類を──」

隣に座っていた山本が数十枚はあろうかという書類の束を陽葵の机にどさりと置いた、決して乱暴ではない動作だったが陽葵は必要以上に驚いてしまう。

「あ、すみません、びっくりさせてしまいましたね」

山本がいい人だと知っている、それでも急な動作や大きな音には恐怖を覚える。山本に嫌な思いをさせてはいけないと冷静を装うとしたが、いいえと答える顔は凍り付いたように感じた、平静を保たなくてはと思うほど呼吸が乱れていく。これは駄目なやつだと瞬間判った、吸っているのに息苦しい、焦るほど呼吸は乱れて──。

「陽葵」

席に座っていた尚登は、様子を察しすぐさま陽葵のそばに立った、わずかに起きた風が尚登のいい匂いを運び、陽葵はなおも息を吸ってしまう。

「大丈夫だ、息を吐いて」

髪に息がかかり言葉が沁みる、尚登は判ってくれている、それに安堵した。言われるままに息を吐き、吐ききれば息が吸える。ゆっくりと言ってくれる声とわずかに感じる副社長の呼吸に合わせて何度か行えばようやく生きた心地が戻ってくる。安堵のため息を吐いたのを尚登は感じほっとする。

「あんま陽葵に近づくなよ、山本さん」

放った言葉は軽口だ、山本も明るく「はいはい」と答える。

「申し訳ありませんでした、藤田さんも副社長が大好きなんですね」
「え、ちが……」

相手に関係なくだと言いかけたが、尚登に髪を撫でられ言葉は飲み込んでしまった。

「今どき、こんなに紙の書類があることにびっくりしたんだよな。悪いな、トップ連中が昭和の頭だからいつまで経ってもこのシステムが終わらない」

言われて陽葵は確かにと思った。経理部は既にペーパーレスで仕事をしているが、上層部はそれをわざわざ出力して決済しているのだと知った。なによりそんなことを言って誤魔化してくれる尚登に感謝した。





14時、社長の共で外出する尚登に同行することになる。地下駐車場に行き社用車に乗り込むが、運転手は山本であることに陽葵は驚く。

「え、秘書って運転もするんですか?」

意外だった、そして陽葵は免許を持っていない、それを理由に秘書などせずに済むか──だが山本が笑顔で説明する。

「本来は車ごとに専属の運転手が付いているのですが、副社長の意向で私が運転しています」

見れば別の車で出かける社長のほうには運転手がおり、ドアを開け社長が乗り込むのを手伝っていた。

「私がいなくなった時は、運転手の配属をお願いすればいいですよ」

山本がエンジンをかけながら言うが、その前に自分は経理課に戻りたいと陽葵は節に願う。

「余計な人件費の削除だよ、俺が運転するって言ったら万が一の事故が起きた時に問題だからって許可が下りなかった。信用ねえよな」
「ご自身が気を付けていても巻き込まれることもあるでしょう。その時に末吉の副社長がなんてニュースが流れたらとんだゴシップだからですよ」
「そうなりゃ、ありがたく引責辞任なんだけどなぁ」
「まぁたそんなことを」

笑顔の山本の軽口に、やはり二人は仲がいいのだと判る。ほぼ尚登が入社した時からの付き合いだと聞けば、かなり気心の知れた存在なのだと陽葵は思った。辞めるだなんだと冗談でも言える関係なのだ。
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