弊社の副社長に口説かれています



都内で2件の仕事をこなした、社長も同席の接待と商談である。
渋谷のホテルでの接待の折り、山本が別室で待とうと陽葵を誘うが、社長は笑顔で陽葵は一緒に来るように言う。ようやく決まった尚登の花嫁候補を早速紹介したいのだが、陽葵はわずかに顔が引きつってしまう。社長が会うほど相手だ、どんな人なのかも判らず、ましてや初対面──嫌だと思う感情を察知するより前に、尚登がそんな必要はないと止めくれ安心した。
それらを終えて帰社した時にはもうまもなく退社という時間だった、営業の者なら直帰しているだろう。しかし社長は人に会う予定があると言って品川で別れ、尚登も一旦会社に戻ってきた。

「藤田さんはお帰りいただいても?」

確かに陽葵は現時点で全く役に立っていない、地下の駐車場から上がり上層階へ行くエレベーターに3階で乗り変える際のエレベーターホールで山本が言う。

「いや、一緒に帰るから、ちょっと待ってろ」

尚登が笑顔で言うので陽葵はおとなしく従うことにした、それも仕事だと思った。やって来たエレベーターには陽葵が最初に乗り込み30階のボタンを押す。

「あ、すみません、専務のところへ寄りたいです」

そう言って山本が脇から操作盤に手を伸ばした──目の前に現れた手に陽葵の体はびくっと反応してしまう、やはり唐突に近づくような動きは苦手だ。瞬間尚登に腕を引かれ、その場から離された。

「えっ、すみません、当たってしまいましたか? って、そんなあからさまに邪険にしなくても、副社長の奥様に手出しはしませんよっ」

尚登の行動に山本は笑顔で抗議をする。

「ダメだね、陽葵に近づく者は許さん」

こちらも笑顔で応え、陽葵からはすぐに手を離す、陽葵が接触恐怖症であることを理解してくれているのだと思えばほっとした。
専務の部屋は1つ下の29階だ。行けば当然のことながら陽葵のことは知られており、仕事の話より陽葵のことで盛り上がってしまい陽葵としては居心地が悪い──完全に外堀から埋められている感覚である。
連絡事項と書類を手渡し、30階の副社長の執務室に入ればなお尚登には副社長としての仕事はあり、決済の書類を片付け、明日の予定を語る山本の話を聞き、1時間ほどしてようやく退社時間となった。
正面玄関である2階でエレベーターを降り、ガラス製の自動ドアを抜けるとJR線を使うという山本は一礼して去っていく。陽葵はみなとみらい線だ、そこからさらに地下へ降りるエスカレーターを使うのだが。

「あの……副社長のご自宅はどちらで」

小さな声で聞いていた、山本と行かなかったということは、JR線や市営地下鉄ではないということだが。

「田園調布」

尚登はにこりと答える。言わずと知れた高級住宅地の名を聞き、思わずその名を繰り返しさすが創業者一族は違うと納得した。

「まあ、バブル期はかなりえぐい地価になったらしいけどな。買ったものじいさんのそのまたじいちゃんの時代で全然良心的な値段で買ったって言うし、今は値崩れしてずいぶん手頃な値段になってるぜ。売る時期を間違えたなんてじいさんはぼやいてる」

とはいえネームバリューはけた違いだ、セレブであることには違いない。

「あ、じゃあ、目黒からの帰りはご自宅を通過してしまいましたね、申し訳ないです」

まさにその日は田園調布で乗り換えたのだ。

「そんなの、全然」

尚登はなおも笑顔で答える、陽葵を送り届けることなどまったく苦ではない。

田園調布駅ならば同じ出発駅だ、方面は下りと上りとなる。二人で並び改札がある地下3階まで続く長い長いエスカレーターを降りていく、改札を抜けホームで電車を待つと、すぐに来たのは下り方面の電車だった。しかし副社長たる尚登は見送るべきだと動かずにいると、尚登は体で陽葵を押した。

「え、ふくしゃちょ……」
「んだよ、帰ろうぜ」

押されるままに電車に乗り込んだ、戸惑いつつも乗り込み、今日も家まで送ってくれるのかと納得した。
席は空いていたが乗るのはたった二駅だ、座ることなく日本大通り駅に到着する。地上に上がりすぐの角を左に曲がり次いで右に曲がり、マンションの入り口がある路地に入ろうとした時。

「尚登さま」

遠くからの声に尚登は足を止める。

「ああ、石巻さん、遅くなってごめん」

尚登が声をかけたのは道を渡った先にある角にある駐車場だった、初老の男性が頭を下げたのは陽葵と目が合ったからだ。尚登はそちらへ歩みを進める。

「爺やの石巻さん」

十分近づいてから紹介した。

「爺やではございません」

厳しい顔をしたまま石巻は否定する、しかしすぐに表情を緩め陽葵に深々と頭を下げて挨拶をした。

「陽葵さま、お初にお目にかかります。高見沢家にて雑務をこなしております、石巻と申します」

執事のようなものだがそのような職種としては就いていないため、そう自己紹介をしていた。

「お聞きする以上にかわいいお方で、勝手ながら大変喜ばしく思います」

石巻の言葉に恥ずかしさが増す、尚登はどのように自分のことを伝えているのだろうか。

「手ぇ出すなよ」
「出すわけがございません、わたくしからしたら孫のようなお嬢様に」

尚登の笑顔での冗談に石巻は大真面目で答える、こちらも仲がいいのだと陽葵は思う。
しかしなぜ執事がこんなところに──石巻が黒塗りの車のトランクから大きなボストンバッグとスーツケースを取り出した。尚登は礼を述べてボストンバッグを肩に担いだ、ということはそれは尚登の荷物なのだろう、なぜそんなものが──。

「こちらはわたくしが」

スーツケースは石巻が運ぶと告げれば尚登は礼を述べて颯爽と歩き出し、道路を挟んだはす向かいにある陽葵のマンションへ向かう。

「え、え、副社長……!?」

そんな荷物を持っていく意味が判らず戸惑う陽葵を石巻がエスコートする、たくさんの荷物を持ち我が家へ向かう意味に気づき、陽葵は声を上げる。

「ふ、副社長! ちょっと待ってください!」

尚登はすでに集合玄関の自動扉の前に立ち、笑顔で陽葵の到着を待っていた。

「どういうことですか! 私の部屋に来るってことですか!」
「ああ、一応婚約ってことだろ、正式にはまだだけど。だったら陽葵と同棲ってどうよって言ったら、うちの親はオッケーって」
「私がオッケーじゃないです!」

今まで来客すらなかった部屋に、義理とはいえ妹さえ受け入れがたいと思っていた部屋に、よりによって副社長が来るとは、しかも一緒に住む前提とは──!
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