弊社の副社長に口説かれています
2.高見沢尚登
横浜、みなとみらいにあるプラント設備会社、末吉(すえよし)商事に入って2年目。仕事にも慣れ、陽葵は充実した毎日を送っていた。
11:30、職場にチャイムの音が鳴り響く。

「うっしゃー、陽葵ちゃん、ご飯行こ!」

隣の席に座る1年先輩で陽葵の指導員でもあった三宅さくらが声をかける、陽葵ははいと答えてパソコンをスリープ状態にした。
陽葵の人と関わるのが苦手な特性を三宅はすぐに見極め受け入れた。やはり父と継母の仕打ちが響いているのだろう、目の前の人が頭を掻こうとする動作すらビクビクしてしまうのだ。どすんと座っただけで怒っているのかとひるみ、大きな声で呼ばれただけで怯えてしまう。そんな陽葵を気遣い接してくれる三宅のお陰で、陽葵は安心して仕事ができている。

昼食の時間は課によって3パターンに分かれている、社食が混雑しないために30分ごとに時間がずらされているのだ。そして場所柄外食も楽しめるが、今日はその社食へと向かった。ビュッフェスタイルの社食の列に並んでいると後ろから声が聞こえてくる。

「あ、ねえ。副社長、また見合い断ったんだって?」

声になにげなく視線を向ければ、そこには華やかな化粧と服装の女性たちがいた、社員証から秘書課の者と判る。

「そーっ、会長、めっちゃ怒ってたよー、あいつは俺の顔を潰すことしかせんってー」

会長、社長、副社長は三世代家族だ、祖父、父、息子となる。

「そもそも回数多すぎじゃない? 先週もじゃなかった?」
「それな。ほぼ毎週末か、下手すれば平日もよね」
「もう、断るの判ってて、会長もセッティングしてるでしょ」
「副社長の結婚相手を探してるって有名になっちゃってるから、先方から是非って言われてみたい。当たらぬ玉も数撃ちゃになってるわよね」
「まあ唐突に副社長の趣味とぴたりと合って、結婚しまーすってなるかもだし?」
「そうかもだけどさ、副社長も若いしさ、恋愛いっぱいしたいだろうし、あのマスクであの肩書きじゃあ、全然女には困ってないでしょうし、それを見合いで好きでもない女とはないわーって本人も思ってるんじゃないのー?」

小さな声に耳を澄まして聞いていたのは、陽葵だけではなかった。

「副社長も大変だね」

前にいた三宅が囁いた、陽葵はうんうんと頷く。

「まああの副社長となら、なんかの間違いでもお手付きになったら嬉しいもんね、年頃の女の子なら売り込むよね。ってうちら平民じゃ言葉を交わすことすらないお相手だけど」

そんな言葉には笑みが浮かぶ、確かに天上人のような存在だ。

その名は高見沢尚登(たかみざわ・なおと)、若干29歳。アメリカの有名大学の大学院を卒業し末吉商事に入ると同時に副社長に就き、早くも父である社長の右腕と称される。顔は完全にイケメン俳優であり、細身で長身なその姿をちらとでも見れば女性社員が大騒ぎするレベルである。陽葵も回数は多くないがその姿を見ている、確かに目を引く美形で、あわよくばと思う気持ちも判らなくもない
そんな尚登を心配してなのか、祖父である会長がとにかく結婚して身を固めろと推し進めているらしい。連日見合いをしているという話は度々聞く、年頃のご令嬢とはそんなにいるものなのだと感心すらしてしまう。

「でも、社内の女性社員にも声をかけていると聞いてますよ? 三宅さんにもチャンスがあったんじゃないんですか?」

陽葵が声はかけてもらっていないのは、入社前の話なのか、きちんと選別はしているのか。

「そんなの、重役に近い庶務課の人たちだけに決まってるでしょっ、私なんか視界に入ることもなく、遠く頭頂部が見えただけで喜ぶレベルだよっ」

その噂は本当だったのかと、むしろ陽葵は呆れた、そこまで必死に結婚相手を探すものなのか、金持ちは金持ちで大変だ、などと他人事に思ってしまう。

そもそも陽葵に恋愛など関係ない、触れられることすら怖いのだ──大学時代、恋人ができたことはあったがキスはおろか、腕を組むことすらできずに終わっている。人との接し方など忘れてしまった、父と手を繋いで歩いた記憶は遠くぼやけている。

きっと一生独り身だ、と妙な確信がある。別に悲しみも感じないほどに。





10月半ば、日曜日の午後。東京都港区にある庭園美術館で過ごし、いい気持ちになって帰路についた。美術館や博物館、あるいは庭園を巡るのは陽葵の数少ない趣味だ。
最寄りの目黒駅に着き、鞄から交通系カードを出そうとしていると、

「──え、お姉ちゃん?」

声にはっとした、そう呼ぶ人はこの世でただ一人だ。
顔が引きつるのを感じながらそちらを見れば、義妹(いもうと)史絵瑠(シエル)が改札の内側からこちらへ向かって歩いてくるところだった、年配の男と腕を組んでいるのが異様に見えた。
史絵瑠だとすぐ判った、だが服や化粧のせいだろうか、陽葵の記憶よりもずっと派手な印象だった。できれば関わりたくはない──気づかないふりでこのまま通り過ぎてしまおう──改札は使わず反対の出口から一旦外へと思ったが、手には既にカード入れが握られていた。

「本当にお姉ちゃん!? 久しぶりね! 元気にしていた!?」

史絵瑠は嬉しそうに言って男の腕を引きながら改札を抜けてくる、男もにこにこと愛想のいい笑みを浮かべてついてきた。腕を組んだ様子から恋人だろうかと思えたがそれにしては年が離れている、どう見ても60歳くらい、父の京助より年上ではないだろうか。見た目で判断してはいけないし、何歳の恋人がいてもいいのだが──それ以上に、男が陽葵を上から下まで遠慮なくジロジロと見るのが嫌だった、いやらしい目つきに感じ身を隠したい気持ちになる。
< 3 / 88 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop