弊社の副社長に口説かれています
通りすがりのラーメン屋を選んだのは尚登だった、コースで出るような店ではないことに陽葵は安堵した。庶民的にも食券を買うタイプの店舗で町中華といったところか。
どれもおいしそうと目移りしていると、尚登が財布を取り出した。
「あっ、ここは私が払います!」
慌てて鞄から財布を取り出した。
「ええ? いいってー」
言って尚登は財布を開ける。
「いえ! 昨日からずっとお支払いいただいてますし、先日のお店で奢っていただいた分はお返ししないと!」
その尚登の財布を手で抑え込み、陽葵は訴える。
「あれはガリガリ君になるんじゃねえの?」
「本当にガリガリ君にするつもりですかっ」
これから寒さも厳しくなるのにと陽葵は内心呆れた、暖房が効いた部屋で食べる氷菓もおいしいといえばおいしいが。
「ふうん。まあじゃあ、判りました」
尚登は笑顔で答え、担々麺と餃子のボタンを押し、陽葵は目移りしながら海老ワンタン麺のボタンを押した、ワンタンが好きだ、それが食べられることにワクワクしながら財布を開けると、その隙に尚登が交通系カードで精算をしてしまう。
「ええ!?」
「食費は俺持ちにしようぜ、嫁さん養うくらいできるから」
「嫁って……」
まだそう決まったわけでもなく、そんなふうに呼ばれることにも慣れない──本当に本気なのだろうか。戸惑いつつも店員に案内されカウンターに横並びに座り料理を待つ。
「思ったけど、今の家の家賃やら光熱費やらなにやらは俺の名義に変えるのも面倒だから今のままにして、新居に越すときには俺の名義にしよう。だから食費は俺持ち、それでも折半にはならないだろう、少し陽葵に金渡しておくわ」
この先の相談など──本当に本気なのか。
「ああ、新居は籍を入れてからな。実はうち二世帯住宅なんだわ、でも今は使ってないもんで、で、今回俺が陽葵ンとこ行くって言ったら、陽葵がうちに来ればいいじゃないって母親が嬉しそうに言うもんで、いや陽葵はもうマンション住まいだからそこへ行くって言ってあるから、今すぐ新たに契約なんて言うと多分母親が拗ねるからちょい待て」
尚登の話に陽葵は小さく頭を横に振る。
「そもそも、私は副社長と結婚なんかしないですから、気にかけてくださるなら最初から全て折半で──」
「なあ、いい加減、マジで副社長はやめろ、あだ名としても超絶恥ずかしいわ」
陽葵ははたと思う、確かに家具店でもジロジロと見られていたように思う。
「ほれ、尚登って呼んでみ」
「えー……」
「えーって嫌そうに言うな」
現に嫌です、と陽葵は目を反らす、上司を名前で呼ぶなど。
「陽葵」
「はい」
「はいじゃねえ、俺のことも呼べ」
「ええー……」
陽葵がどんなに嫌がっても尚登はにこにこと待っている、確かに『副社長』ではあんまりだと判るが。
「せめて苗字にしませんか?」
「親父もいんのに? じいさんもいますけど?」
もっとも会長たる尚登の祖父は、あまり出社はしてこない、陽葵がその姿を見たのも入社式以来だ。しかし会社のトップが親子三世代なのは事実だ。陽葵は腹をくくる。
「尚登、さん」
ため息まじりに呼んだ。
「いいねえ。陽葵」
「はい」
「はいじゃねえ、慣れろ慣れろ」
呼び合いをしようという意味だと判った。
「……尚登さん」
「陽葵」
「尚登さん」
「陽葵」
「尚登さん」
名前だけを呼び合い続けた、この遊びはなんなんだと陽葵は思う。しかし尚登は上機嫌にニコニコしている、そして次の指示が出た。
「『さん』じゃまだ硬ぇじゃん、呼び捨てな」
「無理ですよ」
さすがにそれは泣きたくなる。
「副……尚登さんは目上の方ですし」
「んな肩書き、どうでもいいわ」
それは、呼ばれる方からしてみればそうだろうと陽葵の目が座る。
「年上ですしっ」
尚登は今年29歳、陽葵は24歳になった、5歳差だ。
「数歳の差なんか誤差だろ」
誤差の訳ないじゃないですかと大きな声で言いたいのをぐっと抑えた。
「んじゃ、愛称かな。ナオとか?」
にっこり微笑み尚登は言う、その愛称は家族で呼ばれているものだろうか。
「ナオ……」
思わず繰り返せば尚登は嬉しそうに微笑む。
「お、いいね、いけるねえ」
「え、今のは違います!」
「違うってなんだよ」
「じゃあ、せめて『さん』をつけて……」
「そうやって年齢を感じさせるな」
「気にしてるのは副社長じゃないですか、数歳差は誤差じゃないんですか」
「恋人でさん付けなんて、もっと年の差がある感じするだろうが」
確かに、と思った。父と継母は10歳だ、再婚ということもあってか、継母は父を『京助さん』と呼んでいる。
「じゃ、じゃあ……『くん』で……さすがにいきなり呼び捨ては無理です」
陽葵からすればまだ『副社長』である。
「しょうがねえなあ、んじゃ呼んでみな」
それすら拷問のようだが、陽葵は小さく深呼吸をして呼びかけた。
「尚登くん……」
途端に尚登は嬉しそうに微笑む。
「ええやん、ええやん。陽葵~」
呼びかけにまた始まるのかとうんざりしつつもその名を口にする。
「尚登くん」
恥ずかしさに声は小さくなる、それを聞こうとするかのように尚登は顔を傾け陽葵の顔を覗き込み呼びかける。
「陽葵」
そんな尚登の笑顔が眩しく、陽葵は視線だけを外してなんとかやり過ごす。陽葵にはよく判らない名前の呼び合いは食事が来るまで続いた。
どれもおいしそうと目移りしていると、尚登が財布を取り出した。
「あっ、ここは私が払います!」
慌てて鞄から財布を取り出した。
「ええ? いいってー」
言って尚登は財布を開ける。
「いえ! 昨日からずっとお支払いいただいてますし、先日のお店で奢っていただいた分はお返ししないと!」
その尚登の財布を手で抑え込み、陽葵は訴える。
「あれはガリガリ君になるんじゃねえの?」
「本当にガリガリ君にするつもりですかっ」
これから寒さも厳しくなるのにと陽葵は内心呆れた、暖房が効いた部屋で食べる氷菓もおいしいといえばおいしいが。
「ふうん。まあじゃあ、判りました」
尚登は笑顔で答え、担々麺と餃子のボタンを押し、陽葵は目移りしながら海老ワンタン麺のボタンを押した、ワンタンが好きだ、それが食べられることにワクワクしながら財布を開けると、その隙に尚登が交通系カードで精算をしてしまう。
「ええ!?」
「食費は俺持ちにしようぜ、嫁さん養うくらいできるから」
「嫁って……」
まだそう決まったわけでもなく、そんなふうに呼ばれることにも慣れない──本当に本気なのだろうか。戸惑いつつも店員に案内されカウンターに横並びに座り料理を待つ。
「思ったけど、今の家の家賃やら光熱費やらなにやらは俺の名義に変えるのも面倒だから今のままにして、新居に越すときには俺の名義にしよう。だから食費は俺持ち、それでも折半にはならないだろう、少し陽葵に金渡しておくわ」
この先の相談など──本当に本気なのか。
「ああ、新居は籍を入れてからな。実はうち二世帯住宅なんだわ、でも今は使ってないもんで、で、今回俺が陽葵ンとこ行くって言ったら、陽葵がうちに来ればいいじゃないって母親が嬉しそうに言うもんで、いや陽葵はもうマンション住まいだからそこへ行くって言ってあるから、今すぐ新たに契約なんて言うと多分母親が拗ねるからちょい待て」
尚登の話に陽葵は小さく頭を横に振る。
「そもそも、私は副社長と結婚なんかしないですから、気にかけてくださるなら最初から全て折半で──」
「なあ、いい加減、マジで副社長はやめろ、あだ名としても超絶恥ずかしいわ」
陽葵ははたと思う、確かに家具店でもジロジロと見られていたように思う。
「ほれ、尚登って呼んでみ」
「えー……」
「えーって嫌そうに言うな」
現に嫌です、と陽葵は目を反らす、上司を名前で呼ぶなど。
「陽葵」
「はい」
「はいじゃねえ、俺のことも呼べ」
「ええー……」
陽葵がどんなに嫌がっても尚登はにこにこと待っている、確かに『副社長』ではあんまりだと判るが。
「せめて苗字にしませんか?」
「親父もいんのに? じいさんもいますけど?」
もっとも会長たる尚登の祖父は、あまり出社はしてこない、陽葵がその姿を見たのも入社式以来だ。しかし会社のトップが親子三世代なのは事実だ。陽葵は腹をくくる。
「尚登、さん」
ため息まじりに呼んだ。
「いいねえ。陽葵」
「はい」
「はいじゃねえ、慣れろ慣れろ」
呼び合いをしようという意味だと判った。
「……尚登さん」
「陽葵」
「尚登さん」
「陽葵」
「尚登さん」
名前だけを呼び合い続けた、この遊びはなんなんだと陽葵は思う。しかし尚登は上機嫌にニコニコしている、そして次の指示が出た。
「『さん』じゃまだ硬ぇじゃん、呼び捨てな」
「無理ですよ」
さすがにそれは泣きたくなる。
「副……尚登さんは目上の方ですし」
「んな肩書き、どうでもいいわ」
それは、呼ばれる方からしてみればそうだろうと陽葵の目が座る。
「年上ですしっ」
尚登は今年29歳、陽葵は24歳になった、5歳差だ。
「数歳の差なんか誤差だろ」
誤差の訳ないじゃないですかと大きな声で言いたいのをぐっと抑えた。
「んじゃ、愛称かな。ナオとか?」
にっこり微笑み尚登は言う、その愛称は家族で呼ばれているものだろうか。
「ナオ……」
思わず繰り返せば尚登は嬉しそうに微笑む。
「お、いいね、いけるねえ」
「え、今のは違います!」
「違うってなんだよ」
「じゃあ、せめて『さん』をつけて……」
「そうやって年齢を感じさせるな」
「気にしてるのは副社長じゃないですか、数歳差は誤差じゃないんですか」
「恋人でさん付けなんて、もっと年の差がある感じするだろうが」
確かに、と思った。父と継母は10歳だ、再婚ということもあってか、継母は父を『京助さん』と呼んでいる。
「じゃ、じゃあ……『くん』で……さすがにいきなり呼び捨ては無理です」
陽葵からすればまだ『副社長』である。
「しょうがねえなあ、んじゃ呼んでみな」
それすら拷問のようだが、陽葵は小さく深呼吸をして呼びかけた。
「尚登くん……」
途端に尚登は嬉しそうに微笑む。
「ええやん、ええやん。陽葵~」
呼びかけにまた始まるのかとうんざりしつつもその名を口にする。
「尚登くん」
恥ずかしさに声は小さくなる、それを聞こうとするかのように尚登は顔を傾け陽葵の顔を覗き込み呼びかける。
「陽葵」
そんな尚登の笑顔が眩しく、陽葵は視線だけを外してなんとかやり過ごす。陽葵にはよく判らない名前の呼び合いは食事が来るまで続いた。