弊社の副社長に口説かれています
10.父との和解


月曜日、いつもと変わらぬ出勤だが、気持ちが違う。尚登のそばにいることが誇らしくすらある、目が合えば優しく微笑む尚登がさらに自信を与えてくれた。
みなとみらい駅に到着し、いつものように長い長いエスカレーターに乗り込む。いつものように前のステップに乗る陽葵を守るように後ろに立つ尚登は、今日は背後からその腰に腕を回した。見せつけようというのではない、休日に一日中そうしていたように、単に常に触れていたいのだ。陽葵は今までだったら辞めて欲しいと思っただろう、だが今日は違う、尚登の手にそっと自身の手を重ねていた。その変化に尚登は笑顔になる。

一人、二人とエスカレーターを歩いて二人を抜いていく、頭を下げ挨拶をするのを尚登はさわやかな笑顔と声でおはようと答える。陽葵も小さく会釈をして挨拶をした。その慎ましやかな笑顔に声をかけた者も変化に気づくほどだ。
会社の正面玄関は手を繋いで入って行く、いつものように警備員が最敬礼で挨拶をし、受付嬢たちも立ち上がり会釈をする。

「おはようございます」

僅かに陽葵を睨んだ後の尚登に対する挨拶だ、尚登はいつものようにおはようと答え、陽葵も会釈をし答える。

「おはようございます」

笑顔で発した言葉は尚登の手を軽く握り直しながらの挨拶だ。尚登が自分を選んでくれたことが自信になっていた。姿を見た者が皆気づいている、尚登の隣で怯えていた少女ではなくなっていた。





水曜日。
陽葵は窓ガラスに付いた汚れが気になっていた。なんとか手を伸ばし拭おうとするが届かない、窓際には空調設備があり、それが邪魔をして椅子を寄せても絶妙に届かなそうだ、いっそことその空調設備に乗っかってしまえばいいのだろうが。

「陽葵、なにやってんの?」

背後で陽葵がゴソゴソしていることにやっと気づいた尚登が声をかける。

「あそこに汚れが。尚登くんなら届きませんか?」

大きな窓ガラスを指さし言えば、尚登が歩み寄ってくる。

「窓の外じゃねえの?」
「内側です」
「どっちにしてもそのうち清掃が入るだろ、やってくれんべ?」
「そうですけど、気になって」

小さな汚れだ、今取ってしまえばすっきりする、陽葵はなおも手を伸ばしながら訴えた。

「大体あんなところになんで汚れが付くんだよ、なんの汚れだよ」
「判りませんけど、ありますよね?」
「あるけど」

身を屈め角度を変えてそれを確認した、5ミリ程度の白い汚れが付着している。

「誰も見てねえよ。この高さだし、この部屋に客は来ないし」
「そうですけどぉ」

尚登がやらないのなら棒か何かで擦れないかとその心当たりを巡る、定規やほうきの柄のようなものでいいのだが。

「そういう真面目なとこがな」

可愛いし放っておけないという言葉は発せず、んしょと声をかけて小さな子を抱き上げるようにして陽葵を持ち上げた。

「えっ、ちょ……!」

胸より下が尚登に密着した状態だ、見下ろせば目だけの尚登が微笑む。

「これで届くか」
「え、あ……」

手を伸ばせば確かに余裕で届いた、ティッシュで拭うが思いほかこびりついている。

「えー、本当になんでしょう……ちょっと粘々していて……練り消しみたいな感じです」

それより粘度が高く、ティッシュでは取り切れないようだ。

「うん……いいです、諦めます。意外と怖いので、もう降ろしてください」

ただでさえ地上30階もあるその窓際で抱き上げられるのは、尚登と窓ガラスを信用していないわけではないが、恐怖はある。

「んー、でもこの感触はいいな」

そんなことを言って尚登は陽葵の胸に顔をこすりつける。

「え、ちょ、やめてくださいっ」

下着もジャケットもあり十分守られているその場所が感じるはずがない、と思うのに尚登相手では抑えきれないようだ。体の奥がじんと熱くなり、あらぬところがきゅんっと締まってしまう。駄目だと思うほど喉の奥から声が漏れそうになる。

「尚登、くん……」

尚登の頭を抱きしめそうになった時、社長室から戻ってきた山本が「あ」と声を上げる。

「失礼しました、何分後に戻りましょうか」
「お気遣いなく!」

陽葵は大きな声で否定し、下してくれと暴れた。様子を見て山本は微笑む。

「仲がいいのは重々承知しておりますが、社内ではやめていただきたいですねえ」
「心配しなくても社内じゃやらねえよ、俺しか知らない陽葵を他の野郎に見せるつもりねえし」

尚登は文句を言いながら陽葵を優しく床に下ろした。陽葵はほっとすると同時に頬の熱さも感じ、慌てて両手で隠し山本に背を向ける。

「はいはい、で、何をしておられたんです?」

呆れつつも山本が聞けば、尚登がガラスに付いた汚れを陽葵が気にしていると伝えた。

「本当ですね、あとで掃除に来てもらいましょう」

にこやかに言われ、陽葵はむしろ恥ずかしくなる。本当に自分が頑張ってやることではなかったのだ。

「あ、そうそう。山本さん、(わり)いんだけど、今日は陽葵と二人でご飯にさせてもらっていい?」

尚登が言えば、山本はその理由を尋ねることもなく了承する。

そして昼休みのための鐘が鳴り響くと尚登は陽葵を連れ出す。手を繋いだままやってきたのは、セントラルホテルの中華料理店『朱竜宝園』だ。高級中華料理店にこんな短いスパンで来るなど、一生ないだろうと陽葵は思った。
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