弊社の副社長に口説かれています
「私をご存じでしたか」

優しい笑みを口元に浮かべての言葉に、途端に陽葵の頬に朱が上る。

「はい、あの、すみません、私は末吉の社員でして、あの、本社で経理をしている藤田と申します」

何度も頭を下げながら立ち上がろうとするところを、尚登は慌ててその体を押しとどめた。

「ずいぶん具合が悪そうです、座っていてください」

腕を掴まれ肩も押される、優しい力ながら不意に触れられ陽葵は息を呑んだ。人に触れられるのが苦手だとつくづく思い知らされる。

「……ありがと……ござ……」

礼の言葉は喉の奥に張り付いた、思わず喉に手を当てた時、尚登の顔が近づき心臓が跳ね上がったのは恥ずかしさからだ。

「──月のものですか?」

小さな声で聞いた、その気遣いはむしろ嬉しく思う、陽葵はにこりと微笑み答えることができた。

「いえ、そうでは……」

しかし声にならなかった。

「救急車を呼びましょうか」
「いえ……」

そんなに大げさにしなくて大丈夫、少し気分が悪いだけだと言いたいのに声が出ない、なんとかしゃべろうと息を吸うがどうにもおかしい、焦るほどに呼吸ができなくなっていく、空気を吸い込もうとするのに喉の奥が妙な音を立てるばかりで──。

「大丈夫ですか?」

座ったまま俯く陽葵の顔を見ようと尚登は跪き見上げてはっとした。

「──過呼吸か」

そう言われても陽葵には判らなかった、はっはっと短い呼吸だけを繰り返すが息が吸えず苦しくなっていく。

「息を吐きましょう、ゆっくり」

吐くために吸おうとして、それができずに戸惑った。

「駄目です、まず吐いて」

尚登は滑るように陽葵の隣に座り、背中をそっとさすった、そんな動作は陽葵には辛い、思わず息を吸ってしまい頭がクラクラする。

「私に呼吸を合わせましょう。吐いて」

優しく抱き寄せてくれた体がゆっくりと息を吐き出すのが判る、陽葵も吐き出したつもりだったが喉の奥は詰まったままだ。

「少しだけ吸って」

言われて行うとするができない、それを首を横に振り示した。

「焦らなくて大丈夫です、ゆっくり吐きます」

尚登は呼吸が判るようにとわずかに体を押し当て息を吐く、尚登の息が髪にかかり陽葵はそれに合わせて息を吐くことができた。

「上手です、少しだけ吸って、細くでいいです、吐いて──いいですよ、焦らないで」

優しい声に従えば少しずつ呼吸が戻るのが判る、ようやく頭がクリアになってくる感覚に安堵した。

「……すみません、ありがとうございます、もう、大丈夫です……」

呼吸は戻ったが心拍数は上がったままだ、だがそのドキドキは最初に触れられた時の冷える感覚はなく、熱く燃えるようで……。

「救急車を呼んだ方が」

なおも心配してくれる尚登に申し訳ない、病院にかかるほどのことではない。

「いえ、いつものことなので……大丈夫です」
「いつものこと?」

驚く尚登の声に余計な心配をかけてしまったと焦る。

「いえ、そんなしょっちゅうではないですけど、初めでもないので……治し方が判り安心しました」

いつもただじっと呼吸が戻るのを待っていた。

「パニック障害かもしれません、きちんと病院にかかったほうが」

尚登は提案していた、その手の病が過呼吸を起こすことを聞いたことがある、放っておいてよいものではないだろうと思うが、陽葵は微笑み答える。

「いえ、本当に大丈夫です、今日はちょっと苦手な人に会ってしまったのが原因ですし、それより、あの、大変申し訳ないのですが、手を離してもらっていいでしょうか」

なおも背にあてられた尚登の手の平に動悸が止まらない。

「そんなに嫌わなくても」

笑顔で言いながらも手を離す。

「いえ、すみません、そういうわけではないんです」

尚登を嫌う女がいるだろうか──しかし自分は。

「すみません、人と触れるのが、あまり得意ではなくて」

ああ、と尚登は頷いた。パニック障害ならばそういった症状も重なるときいたことがある。現に陽葵はまだ青ざめたままだ。

「医務室へ行きますか、ああ駅にあるとも限らないのか、せめてタクシーで送りましょう」
「いえ、そんなそんな。ご心配ありがとうございます」

できる限りの笑顔で言った、顔が強張る感じはあるがそこまでのことはない。

「本当に大丈夫です、電車には乗れます、もう帰宅するところでしたし家に帰って休みます」
「ならば家まで送ります」

尚登は真剣な顔で即答した。

「ええ……!?」
「お宅はどちらですか?」

ホームの左右を見ながら言う、アイランド型のホームだ、上りも下りも到着する。

「あの、本社を少し過ぎた先ですけど……」

本社はみなとみらい線のみなとみらい駅にある、そこを通り過ぎた2駅先、日本大通り駅が陽葵もマンションの最寄り駅だ。

「判りました」

ちょうどそこへ下り方面、日吉行の電車が来る、尚登は迷うことなく立ち上がり、陽葵をいざなった。

「あの、あの! 副社長は御用がおありなのでは……!」

きっちり着込んだスーツは普段着だとは思えなかった、体を支えてくれる手を無下に振りほどくこともできずに訴えたが、尚登は笑顔で答える。

「用は済んでいます、そんなに顔色が悪い人を放ってはおけません」

幸い電車は空いており横並びで座ることができた──が、陽葵の顔はますます青ざめる、副社長と並んで座っている状況は普通ではない。
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