弊社の副社長に口説かれています
それが合図だったかのように部屋のドアがノックされ、料理が運ばれてきた。
「尚登さま」
ウェイターが声をかける。
「冷やしたおしぼりをお持ちしますか?」
陽葵は「ん?」と声を上げそうになった、今日はひっぱたいていないのだが──。
「お願いします」
笑顔で答えた尚登が陽葵と目を合わせて自分の目元を指さした、その仕草で自分の涙のためのおしぼりだと判る、本当になんでも見えているのだ。
食事が終わり、乗り込んだエレベーターで尚登が切り出す。
「今日のことは、奥様と史絵瑠さんには内密にお願いします」
これは念押しだ、電話で既にその話はしておりそのために平日の昼間に会う約束をしたのだ。京助は重々しくうなずいた、その意味をようやく理解できた。
「うちの両親にはお義父さんにお会いしたことを伝えます。今後のことも相談のうえ近日ご連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします」
頭まで下げて言う尚登の言葉に陽葵の頬に朱が上る、今後のこととは結婚の話だろうか、本当に尚登と結ばれるのだ。
「奥様にはうちの両親も同席の時にご挨拶できればと思います、それまでは内緒にしていただけると助かります」
他人ではいられない相手だ、せめて観衆が多い席でならばと尚登は画策する、京助もうんうんと頷き了承した。
エレベーターは1階へ着いた、尚登がタクシーで帰ってもらおうするが京助は遠慮する、だが車寄せに停まるタクシーに声をかけるとタクシーチケットを渡してしまう。
「尚登さん、今日はありがとうございました」
乗り込む前に京助は深々と頭を垂れて礼を述べる、陽葵との仲を仲介してくれた礼も、食事代もこちらが誘いましたからと尚登が支払っているものを含めてだ。
「陽葵」
陽葵を優しく抱きしめた。
「本当に今日まで悪かった、許してくれというのは傲慢だろう。それでも陽葵が許してくれるなら今後は失った時間を取り戻したい」
京助の言葉に陽葵は頷き、抱きしめ返していた。
「ああ、でもこれからは尚登さんがいるんだね、その隙間に入れてもらえたら嬉しいな。いいご縁で安心した、尚登さんと幸せになるんだよ」
優しい声に陽葵は小さな声ではいと答えていた。こんな風に言葉を交わすのは何年ぶりだろうか──離れた京助は再度尚登によろしくお願いいたしますと会釈し、タクシーに乗り込んだ。そのタクシーを見送ってから、二人は手をつなぎ社に向かい歩き出す。
「怒ってる?」
尚登はいたずらめいた目で陽葵を見る、陽葵は小さく首を左右に振った。
「怒るというよりびっくりしたけど……もう大丈夫です」
びっくりとも違う、父にはやはり苦手意識があり、恐怖を感じたのが最初か。
「ごめんな。理由はどうあれ、内緒で陽葵と付き合ってるのはやっぱり良心が咎めるから一言くらいと思って電話して、ああそうですかくらいで終わりかと思ったら、なんつうか思っていた感じと違って陽葵のことは心配してる風だったし」
全ての連絡が新奈を通してだったからだ。実の母子であったならそんなものかと諦めてもいたが淋しかったのは事実で、初めて新奈以外の人物から聞く陽葵の話に声は弾んでいた。
「なら会いましょうって言えば、即答で是非是非、楽しみだっていうからセッティングさせてもらった。陽葵は嫌がるだろうと思って内緒しといて、ごめんな」
言って優しく肩を抱きしめる、それだけですべてを許せてしまう。
「せっかく親子なんだし、思うところがあれば吐き出したほうがいいかなとか思ったし。それでも陽葵がどうしても許せないって言うならもう会わなければいいんだし。まあ、荒療治を押し付けて悪かったな」
「ううん……ありがとうございます」
陽葵は尚登の腰に腕を回し答える。
「尚登くんの、言うとおりだと思う……」
どちらかが関係を断ちたいというならともかく、自分も永遠に無視し続けていたいかというとそうではなかったようだ。再会を素直に喜べた、父は自分が幼少期に知っていた人そのものだった、優しく慈悲深い人、少なくともその記憶に間違いはなかったのだ。
「私、多分淋しかったんです、父を取られてしまったって。父は私なんか嫌いになってしまったんだって──でもそうじゃなかった」
新奈に何を吹き込まれても、もっと京助にまとわりつくように話しかけていれば違う未来があったかもしれない。
「それが判ってほっとしました。ありがとうございます、忙しいのにこんな時間を設けてくれて」
「そう言ってもらえてよかった」
尚登は足を止め、人目もはばからず陽葵をしっかりと抱きしめた。昼時のみなとみらいはランチを摂るための人の往来は激しい。
「陽葵が寂しそうな顔をしているのは、俺も辛いからな」
耳元でする優しい尚登の声に、陽葵も尚登を抱きしめる。
これで家族としての時間が、再び動き出すだろうか。
☆
タクシーは事務所まで送ってもらった。夕方、仕事を終え南武線、平間駅近くの自宅へ帰る。
「お帰りなさい」
ただいまと声をかければ、妻の新奈が出迎える。年の割には若作りだが、それも若々しさだろうと京助は好意的に受け入れていた。
「先にお風呂をもらおうかな」
ネクタイを緩めながら言えば、新奈はもう沸かしてあるからごゆっくりと京助を労う。いつもと変わらぬ夫婦の様子だ、だからこそ、京助はふと思ったことが口に出てしまう。
「なあ……陽葵は、元気にしてるかな」
聞けば、新奈はにこりと微笑み答える。
「まあ、急になあに? そういえば最近連絡はないわね、忙しいのかしら? あとでメッセージ入れておくわね」
新奈はよどみなく答えた。
「尚登さま」
ウェイターが声をかける。
「冷やしたおしぼりをお持ちしますか?」
陽葵は「ん?」と声を上げそうになった、今日はひっぱたいていないのだが──。
「お願いします」
笑顔で答えた尚登が陽葵と目を合わせて自分の目元を指さした、その仕草で自分の涙のためのおしぼりだと判る、本当になんでも見えているのだ。
食事が終わり、乗り込んだエレベーターで尚登が切り出す。
「今日のことは、奥様と史絵瑠さんには内密にお願いします」
これは念押しだ、電話で既にその話はしておりそのために平日の昼間に会う約束をしたのだ。京助は重々しくうなずいた、その意味をようやく理解できた。
「うちの両親にはお義父さんにお会いしたことを伝えます。今後のことも相談のうえ近日ご連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします」
頭まで下げて言う尚登の言葉に陽葵の頬に朱が上る、今後のこととは結婚の話だろうか、本当に尚登と結ばれるのだ。
「奥様にはうちの両親も同席の時にご挨拶できればと思います、それまでは内緒にしていただけると助かります」
他人ではいられない相手だ、せめて観衆が多い席でならばと尚登は画策する、京助もうんうんと頷き了承した。
エレベーターは1階へ着いた、尚登がタクシーで帰ってもらおうするが京助は遠慮する、だが車寄せに停まるタクシーに声をかけるとタクシーチケットを渡してしまう。
「尚登さん、今日はありがとうございました」
乗り込む前に京助は深々と頭を垂れて礼を述べる、陽葵との仲を仲介してくれた礼も、食事代もこちらが誘いましたからと尚登が支払っているものを含めてだ。
「陽葵」
陽葵を優しく抱きしめた。
「本当に今日まで悪かった、許してくれというのは傲慢だろう。それでも陽葵が許してくれるなら今後は失った時間を取り戻したい」
京助の言葉に陽葵は頷き、抱きしめ返していた。
「ああ、でもこれからは尚登さんがいるんだね、その隙間に入れてもらえたら嬉しいな。いいご縁で安心した、尚登さんと幸せになるんだよ」
優しい声に陽葵は小さな声ではいと答えていた。こんな風に言葉を交わすのは何年ぶりだろうか──離れた京助は再度尚登によろしくお願いいたしますと会釈し、タクシーに乗り込んだ。そのタクシーを見送ってから、二人は手をつなぎ社に向かい歩き出す。
「怒ってる?」
尚登はいたずらめいた目で陽葵を見る、陽葵は小さく首を左右に振った。
「怒るというよりびっくりしたけど……もう大丈夫です」
びっくりとも違う、父にはやはり苦手意識があり、恐怖を感じたのが最初か。
「ごめんな。理由はどうあれ、内緒で陽葵と付き合ってるのはやっぱり良心が咎めるから一言くらいと思って電話して、ああそうですかくらいで終わりかと思ったら、なんつうか思っていた感じと違って陽葵のことは心配してる風だったし」
全ての連絡が新奈を通してだったからだ。実の母子であったならそんなものかと諦めてもいたが淋しかったのは事実で、初めて新奈以外の人物から聞く陽葵の話に声は弾んでいた。
「なら会いましょうって言えば、即答で是非是非、楽しみだっていうからセッティングさせてもらった。陽葵は嫌がるだろうと思って内緒しといて、ごめんな」
言って優しく肩を抱きしめる、それだけですべてを許せてしまう。
「せっかく親子なんだし、思うところがあれば吐き出したほうがいいかなとか思ったし。それでも陽葵がどうしても許せないって言うならもう会わなければいいんだし。まあ、荒療治を押し付けて悪かったな」
「ううん……ありがとうございます」
陽葵は尚登の腰に腕を回し答える。
「尚登くんの、言うとおりだと思う……」
どちらかが関係を断ちたいというならともかく、自分も永遠に無視し続けていたいかというとそうではなかったようだ。再会を素直に喜べた、父は自分が幼少期に知っていた人そのものだった、優しく慈悲深い人、少なくともその記憶に間違いはなかったのだ。
「私、多分淋しかったんです、父を取られてしまったって。父は私なんか嫌いになってしまったんだって──でもそうじゃなかった」
新奈に何を吹き込まれても、もっと京助にまとわりつくように話しかけていれば違う未来があったかもしれない。
「それが判ってほっとしました。ありがとうございます、忙しいのにこんな時間を設けてくれて」
「そう言ってもらえてよかった」
尚登は足を止め、人目もはばからず陽葵をしっかりと抱きしめた。昼時のみなとみらいはランチを摂るための人の往来は激しい。
「陽葵が寂しそうな顔をしているのは、俺も辛いからな」
耳元でする優しい尚登の声に、陽葵も尚登を抱きしめる。
これで家族としての時間が、再び動き出すだろうか。
☆
タクシーは事務所まで送ってもらった。夕方、仕事を終え南武線、平間駅近くの自宅へ帰る。
「お帰りなさい」
ただいまと声をかければ、妻の新奈が出迎える。年の割には若作りだが、それも若々しさだろうと京助は好意的に受け入れていた。
「先にお風呂をもらおうかな」
ネクタイを緩めながら言えば、新奈はもう沸かしてあるからごゆっくりと京助を労う。いつもと変わらぬ夫婦の様子だ、だからこそ、京助はふと思ったことが口に出てしまう。
「なあ……陽葵は、元気にしてるかな」
聞けば、新奈はにこりと微笑み答える。
「まあ、急になあに? そういえば最近連絡はないわね、忙しいのかしら? あとでメッセージ入れておくわね」
新奈はよどみなく答えた。