弊社の副社長に口説かれています
「え、尚……っ」

陽葵は慌てて尚登の首に腕を回し体を支えた。

「この方が早い」

陽葵には笑顔で言い、今後陽葵の家族からの連絡は自分に繋ぐよう伝え大股で歩き出す。山本も一礼し尚登を追いかけ追い越すと閉まっていたドアを開けた、尚登は礼を述べて中へ入ると陽葵を応接セットの長椅子に横たえる。

「え、大丈夫で……」

横になるほど具合は悪くないと訴えたが。

「仕事がなくなった、寝てろ」

体を起こしかけたがその額を尚登につつかれ、陽葵はおとなしく体を横たえた。そこへ山本が陽葵のひざ掛けを持ってやってくる、秘書になってからはあまり使っていないものだが置いてありよかった。それを尚登が陽葵の下肢にかけその足元に腰かけた。

「なぁんで陽葵のお義母さんから電話があったんだろうなあ……」

頬杖をつき考える、山本は一礼して秘書の控室へこもった、プライベートな話だと判断したのだ。

「父が、教えたのでしょう」

そうとしか考えられない、陽葵は腕で顔を覆い呟いた、泣きそうになるのは堪えた。

「確認してみるか」

約束を反故にされたのは、年上の相手とはいえ受け入れられず提案したが。

「……もう、いいです」

暴力はなかったと言った京助の顔を思い出す、きっと今回も同じ状態だろう。

「でも、なんで直接親父に」

それは判らないと陽葵は腕の下で首を左右に振った。

「ともあれ親父には釘を刺しとく。親だけでなんて言うけど、むしろ無関係でいたいだろ」
「でも……!」

それで済むのか──やはり結婚となれば家族との交流はつきものだろう。自分が本当に天涯孤独ならばいいが、あの親が付いて回るとなると気が重くなる。

「やっぱり私、尚登くんとは──」

言った瞬間、太ももを掴まれた。ひざ掛けの上からとはいえ、甘い声が漏れそうになる。

「今更逃がさねえから」

言葉は乱暴だが心地よく感じてしまう束縛を、陽葵は首肯するだけで受け入れた。





夕方、定時よりやや遅れて会社を出る。他のフロアからも退社する人々が乗り込み、エレベーターは3階に着いた。正面玄関を出て山本と別れると、陽葵は繋いでいた手を尚登の腕にかけ直し、地下へと降りるエレベーターに向かう。

その様子を、正面玄関の真正面、建物内の広場になった場所から新奈は見ていた。イベントも行われるその場所は、待ち合わせやベンチで寛ぐ者もいて、二時間も前からいる変装した新奈の存在も隠していた。

長身の尚登を見上げ微笑む陽葵はすぐに判った、数年会っていないが変わらないものだと思った。控えめな笑みと喋る様子を相変わらず陰気な女だと内心嘲笑った。
距離を保ち二人の後ろをついて歩き出す、尚登の引き締まった背中を見てため息が出た、それだけでなんといい男だと年甲斐もなく思う。陽葵などでなく自分がその手を取れたら──いや、史絵瑠ととって変わってくれたらどれほど嬉しいだろう。陽葵を見下ろす端正な横顔は会社案内で見た写真の比ではない、実物ははるかに美形だ、勝手に胸が躍り足取りも軽くなる。

地下へ降りるエスカーターに前後で乗り込むと、前のステップに乗った尚登がくるりと振り返り新奈は焦る。慌てて視線を反らせたが幸い尚登は新奈の顔を知らない、気づかれることもなくほっとした。そして尚登が笑顔で陽葵の腰に腕を回すのが見えた、陽葵もその腕や背をそっと撫でる様子に仲の良さが見て取れ、嫉妬が湧き上がる。

二人は改札を抜けた、新奈も後に続く。つくづくいい時代になったものだ、自分が学生だった頃はまだ切符を買うのが一般的だった、こんな風に尾行するのは簡単ではなかっただろう。
つかず離れずの距離を保ち電車を待つ。下り方面に乗るのだと判った、ここからなら横浜でも群を抜く観光地となる山下公園や中華街、元町へ向かうのだ。さすが末吉の副社長ともなればいいところに住んでいると感心した。

乗り込んだがたった二駅で降りる、その姿を見逃さずついていった。駅からそう遠くないマンションの集合玄関を陽葵が開け二人揃って笑顔で歩んでいく後ろ姿を見送った。

(同棲してるのね)

目立たぬよう覗き込み、二人の様子を見ていた。生憎エレベーターは全く見えない、それでは何階に停まるのかも判らなかった。二人の姿が消えたのを確認してから郵便受けを見に行く、配達する者は中へは入れないため外に挿入口はあった。だがそこには部屋番号しかなく『藤田』も『高見沢』の名もなかった。
残念に思いながら道路の反対側の歩道へ小走りに向かった、マンションを見上げ待てば7階の部屋に明かりが灯る。

(あそこか)

しかし部屋の番号までは判らない、7から始まる3桁の数字だろう、片っ端から押してみてもよいが。

(──まあ、いいか)

にやりと笑い、その場を後にした。家の場所を確認できれば十分だった。
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