弊社の副社長に口説かれています
「──まあ、仮に義妹が一緒に来るとなれば、ホテルでも用意やらんこともないが」

田園調布の実家にも、陽葵のマンションにも上げるつもりは一切ない。

「とにかくうち行こう、腹減ったわ」

尚登は訴える、事実朝食も昼食も吹き飛び、既に日が傾き始めているのだ。

「でも、せめて着替えたいので、私はあとから伺い──」

言いかけた陽葵のお腹がぐぅと鳴ってしまう、聞いた尚登はにやりと笑った。

「決まりだな」

尚登が笑うのが意地悪だと思った。まもなく石巻が運転する車が病院まで迎えに来てくれた。沈痛な面持ちで事態を憂う石巻に申し訳ない、陽葵は何度も頭を下げながらも石巻がドアを開ける車に乗り込む。

車が走り出すとやがて街並みが変わったのが判る、パリを意識して作られた街は整然としていて美しい。
立派な生垣の切れ目に立派な門があり、その前に車寄せがあった。そこへ入ると石巻がドアを開けるために素早く降りたが、その前に尚登はさっさとドアを開けて降りてしまう。石巻は陽葵のためにドアを支えようとしたが、尚登は仕草でいいからと示し陽葵に降りるよう促した。

門すら鍵がかかっている、門柱にあるテンキーを押し尚登は慣れた様子で開錠すると陽葵の手を取り中へ入っていく。
大きな前庭は丁寧に手入れがされていた、庭は広いのに建物も大きい。世界に名を轟かす企業の社長一家ともとなるとこんな家に住むのかと目の当たりにし、急に尚登といるのが怖くなってしまう。
艶やかな石が敷き詰められたアプローチを歩いて行くと、その先ある大きな玄関が開き美しい女性が飛び出してきた。

「尚登、おかえり! ああ、陽葵ちゃん、いらっしゃいませ!」

ロングヘアが印象的な美女だった、尚登の母、希美(のぞみ)だ。尚登が美形なのは確実にこの母の遺伝だと陽葵は思った、とてもよく似ている。そして長身なところは父である社長だろう、そんなことが判っただけでも陽葵は嬉しくなる。
希美は笑顔で駆け寄り腕を広げた、陽葵を抱きしめようとするが尚登が間に入り邪魔をする。

「触んなよ」
「なによっ、ぎゅってするくらいいじゃないっ」
「いい年したもん同士が抱き着くな」
「お父さんとだってぎゅってするわよ!」
「親父とはいくらでもやれ」

尚登は呆れて言い放つ。

「挨拶させてよっ」

希美は子どもが抱っこをせがむように腕を差し出すが。

「抱き着かなくてもできんだろ」

尚登はなおも冷たい、陽葵にはそれが気遣いだと判る。しかし尚登の袖を引いて大丈夫だと目で伝え一歩前に出て頭を下げた。その時手に持った財布とマヨネーズが目に入り慌てて背後に隠す、手荷物がこれだけを握り締めての来訪など恥ずかしすぎた、せめてレジ袋には入れてもらえばよかった今更ながら後悔する。

「ご挨拶が遅くなりました、藤田陽葵と申します」
「初めまして、陽葵ちゃん!」

なおも腕を広げて近づく希美に代わって尚登が陽葵を抱きしめた。

「触んなって言ってんだよ」
「もうっ、尚登がそんなに嫉妬深いなんて知らなかったわっ」

二人のやりとりに仲の良さが伺え陽葵は微笑む。

「ああ、お会いできて嬉しいわ! 主人から話を聞くばかりだったら、お会いできるのが楽しみだったの! なのに尚登がケチで会わせてくれなくて!」

弾んだ声と嬉しそうな声に歓迎されていると判り陽葵の心の荷が下りた、最初からチクチク嫌味を言うような姑では今すぐ逃げ出していただろう。

「でも会えたタイミングがこんな時だなんて……この度は大変だったわね」

希美の労いに陽葵ははいとだけ答えた、尚登はどこまで伝えたのだろう、継母に誘拐されたなど何事かと思うだろう。

「怖かったでしょう」

言われてはいと頷いた時ドアが再度開いた、そちらを見た陽葵は喉の奥で悲鳴が漏れてしまう。
末吉商事会長、尚登の祖父、則安《のりやす》が立っていた。陽葵は入社式以来見たことがない人物だ、慌てて頭を下げる。

「経理部の藤田陽葵と申します!」

言えば皆が笑い出す、もう経理じゃないだろうと尚登は言い、希美もそんなに改まらなくてもと言葉を添えた。則安も陽葵のイメージにはない優しい笑顔を見せる。

「こちらこそ、ご挨拶が遅くなり申し訳ない」

とんでもないことだと陽葵は頭を下げたまま首を左右に振った。現に会長はあまり社には来ない上、わざわざ自分に会いに来る必要などないはずだ。

「さあ、寒いだろう、早く中へ入りなさい」

言われて希美はそうだったと手を叩き、陽葵たちをいざなった。陽葵は部屋着の上に尚登のコートを借りているが、尚登は軽装だ、飛び出してきた希美もである。希美がさあさあと二人の背を押し、尚登に手を取られ陽葵は歩き出す。
家政婦がドアを押さえて待っていてくれた、その脇を抜けると則安の後ろには社長・仁志も立って二人を出迎える。そんな様子にここが本当に末吉商事の創業者一族の屋敷なのだと、陽葵は改めて認識した。

「全く災難だったね、無頼漢に拉致されるなど」

尚登も詳しいことは知らせていない、身内の犯罪であることはのちに判るとしても今回は知らせたくなかったのだ。陽葵がさらわれ、川崎の家で父と二人監禁されてしまったとだけ伝えていた。
陽葵は小さく首を横に振る。

「尚登く……さんが駆けつけてくれて助かりました」
「まったく無茶をする、警察の到着も待たずに飛び込むなんて。もし陽葵さんになにかあったら」

仁志は尚登を睨みつけ叱った、窓ガラスを割ったというくだりから馬鹿なのかと怒鳴りつけていたが、改めて無茶をしたと思う。

「いえ、でも、すごく、かっこ、よかった、です」

飛び込んできてくれた時に名を呼んでくれた時の嬉しさは、時間が経った今もドキドキしてしまう。凶器を持った男に怯むことなく立ち向かう姿を見て惚れ直したなどと口に出しては恥ずかしくて言えないが、顔中を真っ赤にして告げる陽葵に、希美はきゃあと両手を叩いて喜び、仁志はやれやれと呆れ、祖父はそうかそうかと顎を撫でた。当の尚登は余裕の笑みで陽葵の髪を優しく梳く。
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