弊社の副社長に口説かれています
「あの、お洋服が汚れてしまいますから……!」
「気にしない」
優しい声が髪にかかり陽葵は余計に緊張した。かすかにいい香りがするのは尚登がなにかつけているのだろうか、思わず深呼吸してしまうほどだった。温かさもじんわりと染み入り、全身が心臓になってしまったような感覚に陥る。いつもは人に触れられれば全身が冷えたように感じるが、今は違う、熱くて頭がどうにかなりそうだった。
「──すみません、吐きそうなので離れてもらっていいですか」
それは脅しだ、さすがに服に汚物はかけてほしくないだろうと思い告げたが、しかし。
「ああ、すみません、触れられるのが苦手だと言ってましたね」
尚登は慌てて手を離した、陽葵は口元をタオルで押さえたまま離れる。
「次で一旦降りましょうか、車内を汚すのはよくない。最悪私の服に吐いてくれていいですから」
真面目な返事に、陽葵はむしろ恥ずかしくなる。
「いえ……すみません、大丈夫です、このまま家まで帰れます」
嘘などつかければよかった、むしろ一刻も早く家に帰りたい、とにかく落ち着きたいと思う。そして感動すらしていた、陽葵のことなど知らないはずだ、だが人目に気にせず吐くならどうぞと言えるのか、そんな優しさは罪だとすら思う。
田園調布駅で目黒線から東横線に乗り換える、その路線はやや混んでおり陽葵たちはドア横に立った。
陽葵はドアの嵌め込の窓から流れる景色を見ていた。武蔵小杉駅ではさらに乗り込んできた。尚登は始めはシートの手すりにつかまり陽葵の脇に立つ位置にいたが、押されてドア側へ、陽葵の前に立つ位置に来る。
「さすが土曜日の下りは混みますね」
尚登が言う、陽葵は長身の尚登を見上げて答えた。
「本当ですね」
夕方にはまだ早い、もう少し遅ければもっと混むだろう。
「副社長は電車によく乗るんですか?」
言動から推察した、聞けば尚登はにこりと微笑む。
「もちろん、私は電車通勤です」
「え、意外です」
社長たちは運転手付きの車だったように思ったが。
「そもそも、私なんかが副社長なんて柄ではないんですよ。父の手助けはしたいと思っていたけれど、いきなり副社長って……恥ずかしい限りです」
「そんなことないです、みんな副社長に期待しています、いずれ社長になれば会社を盛り立ててくれると」
陽葵が言えば尚登は笑みを深める。
「ありがとう、ご期待に沿えるよう頑張ります」
是非、と言った返事は喉の奥に引っ込んでしまった、尚登の笑顔が心臓に悪いと思った。途端に尚登の目の前に立っていることが恥ずかしくなる。視線を車窓の外に移し誤魔化そうとしたが、尚登がいて叶わない。さまよった視線は尚登のジャケットの上から二番目のボタンをみつめることになってしまった。
(背、高いと思ってたけど、こうして並ぶと本当に高いな……)
陽葵は160センチだが180センチは超えているだろうか、確認しようにも慣れ慣れしく聞くのは憚れた。俯けば尚登の体温をわずかに感じた、髪にかすかに呼吸がかかるのがなんとも恥ずかしい。
電車内は人の増減を繰り返しながら、やがてみなとみらい駅に到着する。会社へ行くって言っていた尚登だが、まだドアに寄り掛かったままだ。
「あの、着きましたよ」
「え──ああ、あなたを家まで送りますよ」
「え、大丈夫で……」
言ったが乗客がどっと乗り込み今更降りますと言える状況ではなくなってしまった。二つ先ですと伝え、そして日本大通り駅に着き、二人揃って電車を降りた。
「本当にありがとうございました、助けてくださいまして」
陽葵はホームで頭を下げた、ここでお別れだと言いたい。
「まだ早いよ、ちゃんと家まで送りますから」
尚登は意気揚々と改札へ向かって歩き出す。
「気にしない」
優しい声が髪にかかり陽葵は余計に緊張した。かすかにいい香りがするのは尚登がなにかつけているのだろうか、思わず深呼吸してしまうほどだった。温かさもじんわりと染み入り、全身が心臓になってしまったような感覚に陥る。いつもは人に触れられれば全身が冷えたように感じるが、今は違う、熱くて頭がどうにかなりそうだった。
「──すみません、吐きそうなので離れてもらっていいですか」
それは脅しだ、さすがに服に汚物はかけてほしくないだろうと思い告げたが、しかし。
「ああ、すみません、触れられるのが苦手だと言ってましたね」
尚登は慌てて手を離した、陽葵は口元をタオルで押さえたまま離れる。
「次で一旦降りましょうか、車内を汚すのはよくない。最悪私の服に吐いてくれていいですから」
真面目な返事に、陽葵はむしろ恥ずかしくなる。
「いえ……すみません、大丈夫です、このまま家まで帰れます」
嘘などつかければよかった、むしろ一刻も早く家に帰りたい、とにかく落ち着きたいと思う。そして感動すらしていた、陽葵のことなど知らないはずだ、だが人目に気にせず吐くならどうぞと言えるのか、そんな優しさは罪だとすら思う。
田園調布駅で目黒線から東横線に乗り換える、その路線はやや混んでおり陽葵たちはドア横に立った。
陽葵はドアの嵌め込の窓から流れる景色を見ていた。武蔵小杉駅ではさらに乗り込んできた。尚登は始めはシートの手すりにつかまり陽葵の脇に立つ位置にいたが、押されてドア側へ、陽葵の前に立つ位置に来る。
「さすが土曜日の下りは混みますね」
尚登が言う、陽葵は長身の尚登を見上げて答えた。
「本当ですね」
夕方にはまだ早い、もう少し遅ければもっと混むだろう。
「副社長は電車によく乗るんですか?」
言動から推察した、聞けば尚登はにこりと微笑む。
「もちろん、私は電車通勤です」
「え、意外です」
社長たちは運転手付きの車だったように思ったが。
「そもそも、私なんかが副社長なんて柄ではないんですよ。父の手助けはしたいと思っていたけれど、いきなり副社長って……恥ずかしい限りです」
「そんなことないです、みんな副社長に期待しています、いずれ社長になれば会社を盛り立ててくれると」
陽葵が言えば尚登は笑みを深める。
「ありがとう、ご期待に沿えるよう頑張ります」
是非、と言った返事は喉の奥に引っ込んでしまった、尚登の笑顔が心臓に悪いと思った。途端に尚登の目の前に立っていることが恥ずかしくなる。視線を車窓の外に移し誤魔化そうとしたが、尚登がいて叶わない。さまよった視線は尚登のジャケットの上から二番目のボタンをみつめることになってしまった。
(背、高いと思ってたけど、こうして並ぶと本当に高いな……)
陽葵は160センチだが180センチは超えているだろうか、確認しようにも慣れ慣れしく聞くのは憚れた。俯けば尚登の体温をわずかに感じた、髪にかすかに呼吸がかかるのがなんとも恥ずかしい。
電車内は人の増減を繰り返しながら、やがてみなとみらい駅に到着する。会社へ行くって言っていた尚登だが、まだドアに寄り掛かったままだ。
「あの、着きましたよ」
「え──ああ、あなたを家まで送りますよ」
「え、大丈夫で……」
言ったが乗客がどっと乗り込み今更降りますと言える状況ではなくなってしまった。二つ先ですと伝え、そして日本大通り駅に着き、二人揃って電車を降りた。
「本当にありがとうございました、助けてくださいまして」
陽葵はホームで頭を下げた、ここでお別れだと言いたい。
「まだ早いよ、ちゃんと家まで送りますから」
尚登は意気揚々と改札へ向かって歩き出す。