弊社の副社長に口説かれています
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外出前にトイレを済ませようと向かうと、手前にあるパウダールームに秘書課課長の落合恵美がいた。1つ下の階のフロアにある総務課の者がトイレを使うことはままあった、本来なら来客も使う場所であり褒められたことではないが多めに見られている。
陽葵は目礼と挨拶をして通り過ぎようとしたが。
「あら、藤田さん」
落合が鏡越しに声をかける、陽葵は足を止めて改めてお疲れ様ですと声をかけた。
「尚登くんとの結婚は進んでるみたいね」
落合にも話は伝わっているのかと陽葵は小さく返事をした。既に親同士の挨拶も終わり、古式ゆかしく仲人もお願いしての結納の日取りと場所を調整している最中だ。
その折、新奈と史絵瑠の話も聞いた、父の京助には警察から連絡があるようだ。
新奈は変らず否認しているが、既に送検されたという。現行犯逮捕だ、有罪には間違いないと言われている。
史絵瑠に関しては、京助が身元の引き受けを申し出たが本人から拒否された。警察からも薬物を使用していた環境に戻るのはあまり好ましい状況ではないのでお勧めできないと言われ諦めた。史絵瑠は退院すると薬物を断つための支援施設に入ったということだ。
そして史絵瑠に覚せい剤を服用させた男は、史絵瑠のことが報道されるとすぐに出頭したという。男が去った時にはまだ史絵瑠に意識はあり、大丈夫だというから一人帰ったというが史絵瑠はそれは覚えておらず真偽のほどは確認のしようがない。ともあれ服用の事実は認めた男には処分が下ることを知り、陽葵は安堵した。
安堵といえば、父は今は武蔵小杉駅の賃貸マンションに住んでいる。犯罪があった家に住めないというのが一番だが売却はしかねている、陽葵や亡き妻との思い出も詰まった家を手放す気にはなれないのだ。いつか新奈が戻ってくるかもしれないと思えば手放すべきで、いずれはと考えており、陽葵にも荷物の整理を頼んでいる。
陽葵はようやく実母の写真を手にできた。記憶の中の母より若く見える母だった、京助の言うように少し似ているかもしれないと思った。
「はあ、私も一安心だわ」
その結婚相手は自分の関係者にしたかった落合だ、陽葵の結婚など嫌なのでは──困りつつも礼を述べ頭を下げた。
「会社はいつ辞めるの? 希美は挙式後だったから、あなたもかしら? それとも今は寿退社なんて流行らないからもう少し働くの?」
そのような相談はまだ何もしていない、陽葵は素直にまだ決めていませんと小さく答えた。
「まあ嬉しいわよ、尚登くんが結婚なんて。時代が時代とは言えもう少し早く身を固めていいじゃないかしらね。希美たちが甘いのよ、外国で何年も留学なんてさせるから」
尚登の母を名前で呼ぶとは、と陽葵は思う。ライバルだったというが、仲は良かったのだろうか。実際には希美は落合より1年後輩で入社し、あとから仁志の秘書になった関係だ、後輩という立場から勝手に名で呼んでいる。
「なかなか子供ができなくて、ようやくできた一粒種だからかわいくてしかたないんでしょうけど、自由にさせ過ぎよね」
自由だという話は尚登も以前言っていた、本当に自由奔放に育ったのだろう、陽葵は小さくうなずいてしまう。
「でもまあ、私としても子どもというより孫が結婚する気分よ、めでたいわ」
そんな言葉は本心に思え、陽葵は笑顔で礼を述べて頭を下げた。
「それにしても、あなた、あいかわらず化粧もしてないのね」
鏡越しに見つめられ、陽葵は今度は謝罪して頭を下げる。
「まあ、秘書といっても完全に腰かけでしょうし、私があれこれ言っても尚登くんは文句言うだろうし、気にすることでもないんでしょうけど。ああ、ちょうどいいわ、これ、あげる」
自分のパクトをポーチにしまい、別の物を陽葵に差し出した。海外のハイブランドのファンデーションである。
「え、こんなお高いもの、いただけません……っ」
自分は入店しようと思ったこともないブランドである。
「あら、言うほど高くはないのよ。見栄張って明るい色にしたら失敗したの、交換に行くのも恥ずかしいからよかったら使って」
言いながら荷物をまとめていく。
「そんな、ありがとうございます」
陽葵は慌てて声をかけた。
「ああ、お礼なんて言わないでね、間違えて買ったんだもの。使いかけで悪いけど、使ってくれたらありがたいわ」
笑顔でいい、陽葵の肩を叩き去ろうとする。
「ありがとうございます」
礼を伝えれば、落合は微笑みパウダールームを出て行った。
一生手にすることはないだろうと思っていたハイブランドのファンデーションをまじまじと見た、蓋を開ければその証のようにロゴマークがエンボスされている。確かにややこすれた跡があるのは落合が使った証拠だろう、パフにも痕跡がある、それを手に取り使用痕がない場所でファンデーションを取ると頬に乗せてみた。
素肌に乗ったファンデーションは色も使用感も馴染んだ、普段化粧などしないがとてもいい品だろうと判る。
礼は要らないと言っていたが、されれば嫌な顔はしないだろう。これほどの物をもらったならやはりお礼はすべきだ、何がいいだろうか、尚登に相談したら案をくれるだろうか。
(ん、でも落合さんは嫌いみたいだし、女性へのお礼を聞いても判らないかも)
尚登には言わずにおいてよいだろうか──だが贈り物は落合にも存在を認められたようで嬉しかった、笑顔でパクトを閉じる。
外出前にトイレを済ませようと向かうと、手前にあるパウダールームに秘書課課長の落合恵美がいた。1つ下の階のフロアにある総務課の者がトイレを使うことはままあった、本来なら来客も使う場所であり褒められたことではないが多めに見られている。
陽葵は目礼と挨拶をして通り過ぎようとしたが。
「あら、藤田さん」
落合が鏡越しに声をかける、陽葵は足を止めて改めてお疲れ様ですと声をかけた。
「尚登くんとの結婚は進んでるみたいね」
落合にも話は伝わっているのかと陽葵は小さく返事をした。既に親同士の挨拶も終わり、古式ゆかしく仲人もお願いしての結納の日取りと場所を調整している最中だ。
その折、新奈と史絵瑠の話も聞いた、父の京助には警察から連絡があるようだ。
新奈は変らず否認しているが、既に送検されたという。現行犯逮捕だ、有罪には間違いないと言われている。
史絵瑠に関しては、京助が身元の引き受けを申し出たが本人から拒否された。警察からも薬物を使用していた環境に戻るのはあまり好ましい状況ではないのでお勧めできないと言われ諦めた。史絵瑠は退院すると薬物を断つための支援施設に入ったということだ。
そして史絵瑠に覚せい剤を服用させた男は、史絵瑠のことが報道されるとすぐに出頭したという。男が去った時にはまだ史絵瑠に意識はあり、大丈夫だというから一人帰ったというが史絵瑠はそれは覚えておらず真偽のほどは確認のしようがない。ともあれ服用の事実は認めた男には処分が下ることを知り、陽葵は安堵した。
安堵といえば、父は今は武蔵小杉駅の賃貸マンションに住んでいる。犯罪があった家に住めないというのが一番だが売却はしかねている、陽葵や亡き妻との思い出も詰まった家を手放す気にはなれないのだ。いつか新奈が戻ってくるかもしれないと思えば手放すべきで、いずれはと考えており、陽葵にも荷物の整理を頼んでいる。
陽葵はようやく実母の写真を手にできた。記憶の中の母より若く見える母だった、京助の言うように少し似ているかもしれないと思った。
「はあ、私も一安心だわ」
その結婚相手は自分の関係者にしたかった落合だ、陽葵の結婚など嫌なのでは──困りつつも礼を述べ頭を下げた。
「会社はいつ辞めるの? 希美は挙式後だったから、あなたもかしら? それとも今は寿退社なんて流行らないからもう少し働くの?」
そのような相談はまだ何もしていない、陽葵は素直にまだ決めていませんと小さく答えた。
「まあ嬉しいわよ、尚登くんが結婚なんて。時代が時代とは言えもう少し早く身を固めていいじゃないかしらね。希美たちが甘いのよ、外国で何年も留学なんてさせるから」
尚登の母を名前で呼ぶとは、と陽葵は思う。ライバルだったというが、仲は良かったのだろうか。実際には希美は落合より1年後輩で入社し、あとから仁志の秘書になった関係だ、後輩という立場から勝手に名で呼んでいる。
「なかなか子供ができなくて、ようやくできた一粒種だからかわいくてしかたないんでしょうけど、自由にさせ過ぎよね」
自由だという話は尚登も以前言っていた、本当に自由奔放に育ったのだろう、陽葵は小さくうなずいてしまう。
「でもまあ、私としても子どもというより孫が結婚する気分よ、めでたいわ」
そんな言葉は本心に思え、陽葵は笑顔で礼を述べて頭を下げた。
「それにしても、あなた、あいかわらず化粧もしてないのね」
鏡越しに見つめられ、陽葵は今度は謝罪して頭を下げる。
「まあ、秘書といっても完全に腰かけでしょうし、私があれこれ言っても尚登くんは文句言うだろうし、気にすることでもないんでしょうけど。ああ、ちょうどいいわ、これ、あげる」
自分のパクトをポーチにしまい、別の物を陽葵に差し出した。海外のハイブランドのファンデーションである。
「え、こんなお高いもの、いただけません……っ」
自分は入店しようと思ったこともないブランドである。
「あら、言うほど高くはないのよ。見栄張って明るい色にしたら失敗したの、交換に行くのも恥ずかしいからよかったら使って」
言いながら荷物をまとめていく。
「そんな、ありがとうございます」
陽葵は慌てて声をかけた。
「ああ、お礼なんて言わないでね、間違えて買ったんだもの。使いかけで悪いけど、使ってくれたらありがたいわ」
笑顔でいい、陽葵の肩を叩き去ろうとする。
「ありがとうございます」
礼を伝えれば、落合は微笑みパウダールームを出て行った。
一生手にすることはないだろうと思っていたハイブランドのファンデーションをまじまじと見た、蓋を開ければその証のようにロゴマークがエンボスされている。確かにややこすれた跡があるのは落合が使った証拠だろう、パフにも痕跡がある、それを手に取り使用痕がない場所でファンデーションを取ると頬に乗せてみた。
素肌に乗ったファンデーションは色も使用感も馴染んだ、普段化粧などしないがとてもいい品だろうと判る。
礼は要らないと言っていたが、されれば嫌な顔はしないだろう。これほどの物をもらったならやはりお礼はすべきだ、何がいいだろうか、尚登に相談したら案をくれるだろうか。
(ん、でも落合さんは嫌いみたいだし、女性へのお礼を聞いても判らないかも)
尚登には言わずにおいてよいだろうか──だが贈り物は落合にも存在を認められたようで嬉しかった、笑顔でパクトを閉じる。