弊社の副社長に口説かれています



外回りからも無事に戻り、終業時間になればいつものように退社する。社屋を出ると尚登は陽葵の肩を抱いた。

「どっかで飯でも食っていくか」

尚登の誘いに陽葵は頬を染め小さくうん、と頷く。いつの頃からか食事を済ませてからの帰宅は、その夜は愛し合うという暗黙の了解になっていた。

ランドマークプラザにある蕎麦屋で食事を済ませ、電車で帰宅すれば風呂に直行しそのままベッドだ。

尚登は変らず優しく陽葵を求める、陽葵はそれに素直に応える、一番心が満たされる時間だった。





空気が震えるのに陽葵は意識を浮上させた。スマートフォンが着信を知らせている、やや遠いのは尚登のものだろう。先ほどから何度か震えているようだ、一旦収まったがまた震えだす、電源を落とそうと、尚登は陽葵が抱き枕のように抱きしめているのを気遣いながらもそれを手に伸ばす、気配を感じた陽葵は体を離した。

「悪い」

尚登の謝罪に陽葵は小さく「ううん」と応え目を閉じる、尚登は画面に出た『Theodore(セオドア)』という発信者の名前を見てムッとした。

「……Theo(セオ)……」

苛つきながも電源は落とさず通話ボタンを押した、スピーカーにしたわけでもないのに途端に元気な声が陽葵の耳にも元気な声が聞こえる。

『Hello, Nao! How are you!?』
「Screw you. What time do you think it is?」(ふざけんな、今何時だと思ってる?)

尚登の返しに陽葵はああと思う、先日も電話で会話をしていた、アメリカでマーシャルアーツを教えているというオーナーだ。尚登が陽葵からすれば完璧と思える英語で不自由なくしゃべる様子に感心したのを覚えている、こちらに知り合いがいないかとまずはメールで相談したところ、その返信が電話であったがその続きだろう。

『Well, It’s 4:00!』(おう、4時だ!)
「All right, It’s 5:00 in the morning here」(いいだろう、こっちは5時だ、朝のな)

アメリカの現地時間は夕方となる。尚登は怒りを込めてため息交じりに言うが、セオドアはガハガハと笑うばかりだ。

『おお、時差なんてすっかり忘れてたぜ! そんなことよりコーチの件なんだが!』

そんなことよりと言われ苛立ちは募ったが、こちらから依頼していた件だ、尚登はああと頷く。

『そっちに俺んとこで教わったやつはいるとは言ったが、やはりヨコハマからは遠いようだ、お互い通うのは無理だろって言われちまった、わりぃな、日本なんてちょちょいと行けると思ってたわ』
『長さだけなら北海道から沖縄までは、ニューハンプシャーからテキサスまでと変わらねえからな』
『なるほど、そりゃすげーな!』

もちろん面積では約26倍もの差があるが、日本は思いの他南北に長い。そんな日本も交通網は発達し北海道から沖縄までちょっと仕事をしてその日のうちに帰るなどと言うことも可能だが、定期的にとなれば苦痛だろう。

『なもんでどうしようかと思ってたら、んじゃ私が行くわってのがいたんで、行かせるな!』
『そりゃありがたいけど、誰が来てくれんの?』
『こっちに来た年数は浅いが、それなりに動ける。なまったなんていうナオの相手にはいいと思うぜ!』
『おう、助かる』
『なんてのをナオに確認取ってからって言ったんだけんどよ、気が早ぇな、もう空港に行っちまったよ。とりあえずはナオの自宅に向かうって言うから住所は教えておいたわ、中区山下町の701号室だったな』
『そうだけど、できれば教えてほしくなかったわー』

ここはあくまで陽葵の家だ。

『指導料は気にするな、俺の方で持つ』
『だろうな』

尚登が対価を支払うことになれば仕事となる、これほど急な来日では就業ビザなど持っていないだろう。不法就労はさせられない。

『着の身着のままだ、落ち着くまで置いてやってくれ』
『いや、無理だわ』

知っている者でなければ二つ返事で外国までは来ないだろう、あの者かこの者かと男たちの顔を思い浮かべた。男ならば余計にこの家には入れたくはない、近くのホテルにでも泊まってもらうか。
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